発掘された日本列島2025 2025.9.9yamashiro
発掘された日本列島2025展
京都府立山城郷土資料館 京都府木津川市山城町上狛千両岩
0774-86-5199 月休 撮影可
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近隣観光地 |
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奈良市近郊 宇治平等院 |
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近隣博物館 |
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奈良大学博物館 奈良国立博物館 帝塚山大学付属博物館 東大寺ミュージアム
平城宮いざなぎ館 奈良文化財研究所平城宮跡資料館など多数 |
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目次
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100新発見考古速報
110縄文時代
120上粕谷・秋山遺跡
123出土土器
140前田遺跡
※考察 イチイガシ
※考察 土器底圧痕
※考察 オニグルミ
147編みかご
200弥生時代
210顕孝寺遺跡
215青銅武器
230高畑遺跡
233広形銅戈鋳型
235奴国
250高橋貝塚
253夜臼式土器
255貝輪と貝加工品
※擬無文土器
256他地域の土器
261西北九州産の石器
※層灰岩
※菫青石
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300古墳時代
310上官塚古墳
312埴輪
330陵東遺跡
333埴輪
400古代
410曽我墓所遺跡
413水鳥形埴輪
430X線の力
440出土物
443横型環状瓶
500中世
510子易・中川原遺跡
513出土物
600近世
610御土居跡
613極印鑽
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1000我が町が誇る遺跡
1100A洞窟王国佐世保
1110福井洞窟
1111洞窟遺跡の変遷
1113細石刃期
1130菰田洞穴・板山遺跡
1141泉福寺洞窟
1143直谷岩陰
1150岩下・下本山岩陰
1200B琵琶湖の水中遺跡
1210粟津湖底遺跡
1240針江浜遺跡
1260葛籠尾崎湖底遺跡
1300C東国千年の都
1310男子埴輪
保渡田Ⅶ遺跡
1320埴輪
三ツ寺遺跡
1323保渡田八幡塚古墳
井出二子山古墳
1333遠見山古墳
1341山王廃寺
1351国分寺・尼寺
1360石碑
1381屯倉から評へ
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2000遺跡から読み解く
地域の多様な歴史文化
2001埴輪列の世界
2010埴輪列の世界Ⅰ
2020埴輪列の世界Ⅱ
中山大塚古墳
2021メスリ山古墳
2022寺戸大塚古墳
2023森将軍塚古墳
2024金蔵山古墳
2025宮山古墳
2026池田古墳
2027宝塚1号墳
2028保渡田八幡塚古墳
2029今城塚古墳
2031岩戸山古墳
2032姫塚古墳
2033甲塚古墳
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3000山城郷土館地域展
3100恭仁京
3110恭仁宮
3120軒瓦
3200山背国分寺跡
3300神雄寺跡
3321土師器皿
3323墨書土器
3400栢ノ木遺跡
3500銭司遺跡
3550奈良山瓦窯跡
3603三彩垂木先瓦
3700樋ノ口遺跡 |
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10宇治の平等院
京都駅⇒宇治駅⇒上狛駅
朝からうなぎ上りの水銀柱の中、宇治平等院に行きました。寺内博物館の中には飛天を始め素晴らしい美術品がありましたが、撮禁でした。
長く京都に住んでいましたが、平等院には、いつでも行けると、行ってませんでした。それから50年も経って始めて行けました。
素晴らしい経験でした。
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20高麗寺跡
山城恭仁京跡は廃都後に山城国分寺となりました。そこは、山城郷土館の近くにあり、と聞いていました。
上狛駅から郷土館への道すがら、高麗寺廃寺があり、ここを国分寺跡?と思っていました。
帰宅後調べると、やはり地図を読み違えていました。ていうか、記憶違いというか。
山城恭仁京大極殿跡
山城郷土館の隣には、平城京を一時遷都された山城恭仁京があります。(740年12月15日~744年1月1日まで)後、紫香楽宮⇒難波京⇒平城京と変遷。
短期間の都のあと、山城国分寺となりました。
恭仁京跡
山背国分寺跡 |
パノラマ⇒ |
⇒
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⇒
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⇒
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高麗寺跡
金堂跡 |
高麗寺
金堂跡 |
史跡高麗寺跡 |
塔跡 |
基壇跡 |
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高麗寺跡 |
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30山城郷土館
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長持形石棺(複製)古墳時代中期(5世紀) 8枚の大きな板石からなるこの石棺は、衣服などをしまった 「長持」 に似ているので長持形石棺とよび、
兵庫県高砂市の竜山産の石で造られている。
長持形石棺は大山古墳などの巨大古墳に使われ、「王者の棺」とも呼ばれる。
この石棺の出土した久津川車塚古墳は、 全長180mを越える墳丘の周囲に濠をたたえる山城最大の前方後円墳である。 |
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発掘された日本列島2025 京都山城会場
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はじめに
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「発掘された日本列島」展は
(1)我がまちが誇る遺跡
(2)新発見考古速報
(3)特集 遺跡から読み解く地域の多様な歴史文化
(4)会場博物館の地域展
の順に展示されるのですが、山城郷土館では展示会場の都合上(1)(2)が入れ替わっていますがそのまま掲載します。
また、佐世保市島瀬美術博物館では、
(2)新発見考古速報 のあとに「佐世保の近代化遺産」
(3)特集 遺跡から読み解く地域の多様な歴史文化 のあとに「長崎県内の特別史跡」
及び常設展の一部である「郷土史体験展」「発掘された郷土」が付加・展示されていますが、これらは別のページで構成します。
また、佐世保会場での地域展は「福井洞窟ミュージアム」の常設展に付け加えて展示されています。 |
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100新発見考古速報
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101
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ごあいさつ
文化庁長官 都倉俊一
我が国には四十七万カ所以上の遺跡が知られており、まさに遺跡の宝庫といえま す。これらは単なる過去の遺産ではありません。それぞれの土地の気候や風土に適
応して地域独自の生活を営み、世代を繋いできた私たちの先祖の文化的なDNAと いうべきものであり、私たちが未来を切り開いていく礎といえるでしょう。
こうした遺跡をまもるため、毎年およそ八千件の発掘調査が行われ、数多くの成 果が日々蓄積されています。文化庁では、そうした発掘調査のうち全国的に注目さ
れた成果を、多くの方々にご覧いただくことを目的に、平成七年度から「発掘され た日本列島」展を開催しております。今年度も中核展示として、『我がまちが誇る
遺跡』 と 『新発見考古速報』を行います。
『我がまちが誇る遺跡』は、継続的な発掘調査の成果に基づく地域研究によって 明らかになった「地域の特性や魅力」に目を向け、発信するものです。今回は、長
崎県佐世保市、滋賀県、群馬県・同県前橋市・高崎市、による三つの企画を取り上 げます
『新発見考古速報』では、縄文時代から近世まで、近年広く注目を集めた一〇遺 跡を取り上げ、速報展示を行います。
特集展示『遺跡から読み解く多様な歴史文化』では、さまざまな視点から遺跡や 遺物を見ることにより浮かび上がる、個性豊かな日本の歴史文化をパネルにて紹介
します。今回は、『埴輪列の世界』と題して、古墳に立て並べられた埴輪の配列の 通時的な変化や時期的・地域的な特徴について、代表的な一三の古墳を取り上げて
展示します。
今年度、本展覧会では四四遺跡、約四八〇点の出土品等を、佐世保市博物館島瀬 美術センター、京都府立山城郷土資料館、三重県総合博物館、郡山市歴史情報博物
館の四館で巡回展示します。
多くの方々が本展覧会をご覧になり、さまざまな発掘調査の成果を間近にするこ とで、我が国の歴史や文化の価値と多様性を感じ取り、発掘調査の意義と埋蔵文化 財の保護へのご理解を一層深めていただければ幸いです。
最後になりましたが、本展覧会の開催に当たり、ご協力を賜りました関係各位に 深く御礼を申し上げます。
令和七年七月 |
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日本列島発掘調査展2025
日本列島では、年間約8,000カ所の遺跡が発掘されています。埋蔵文化財は、それぞれの地域特有の歴史や文化を雄弁に物語っています。一般公開できるのは、発掘された遺跡のほんの一部に過ぎませんが、全国各地の特に注目すべき発掘調査の成果を、より多くの方々にタイムリーかつ身近にご覧いただけるよう、文化庁は1995年から毎年「日本列島発掘調査展」を開催しています。今年度で31回目を迎えます。
今年度は3つの企画展を開催します。
まずは「遺跡は、わが町の誇り」と題した企画展です。南北に細長い日本列島には、古代から豊かな地域文化が息づき、その一部は現代にも受け継がれています。本展では、各地域における継続的な調査研究の成果を集約し、個性豊かな遺跡を通して「地域の歴史の魅力」を分かりやすく紹介します。
今回は、特別史跡「福井鍾乳洞」をはじめとする国内有数の洞窟遺跡集積地を有する長崎県佐世保市、縄文時代から近代にかけて、集落や貝塚、祭祀遺跡、交通、城郭など、多様な水中遺跡が発見されている日本最大の湖・滋賀県琵琶湖、そして古墳時代には1万3000基を超える古墳が築造され、古代東洋文化の中心地として栄えた群馬県の3つのプロジェクトに焦点を当てます。
第二展示では、縄文時代から近世にかけて、全国各地から発掘された10の遺跡を紹介します。最新の発見をお楽しみください。
3つ目は特別展「遺跡から読み解く多様な歴史文化」です。遺跡や出土品を多角的に捉えることで、日本独自の歴史文化を深く掘り下げます。今年のテーマは「埴輪の再現世界」。埴輪の配置や配置の変遷を通時的に辿り、地域性や現在実際に訪れることができる13基の古墳の魅力を浮き彫りにします。
Exhibition of Excavations in the Japanese Archipelago 2025
Approximately 8,000 archaeological sites are excavated annually across
the Japanese archipelago. Buried cultural properties tell an eloquent story
of the history and culture unique to each area. While the public can only
interact with a fraction of the many excavated sites, to allow as many
people as possible to view the results of particularly notable excavations
from around the country in a timely and accessible way, the Agency for
Cultural Affairs has held the "Exhibition of Excavations in the Japanese
Archipelago" each year since 1995, This year marks the 31st exhibition.
Three exhibits are planned for this fiscal year.
The first is an exhibit entitled "Archaeological Sites, the Pride of Our Town". The Japanese archipelago, long and narrow from north to south, has long been home to a rich variety of local cultures since ancient times, and some of them have been handed down to the present day. This exhibit compiles findings from ongoing research into each region and introduces the "appeal of the history of the region" through unique archaeological sites in an easy-to-understand format.
This time, we will be focusing on three projects: Sasebo City in Nagasaki
Prefecture, home to one of the largest concentrations of cave sites in
Japan, including the Special Historic Site Fukui Cave; Lake Biwa in Shiga
Prefecture, Japan's largest lake, where a wide variety of underwater archaeological
sites have been discovered, ranging from settlements and shell mounds,
ritual sites, transportation, and castles, from the Jomon period through
to modern times; and Gunma Prefecture, where over 13,000 ancient tombs
were constructed during the Kofun period, marking the area as a center
of eastern culture during ancient times.
The second exhibit introduces 10 excavated sites from around the country, spanning from the Jomon to Early Modern periods. We invite you to enjoy these recent discoveries.
The third is a special exhibition entitled "Diverse Historical Cultures Revealed from Sites". By viewing sites and artifacts from multiple perspectives, the exhibition delves into the unique historical culture of Japan. This year's theme, "The World of Haniwa Retracement", looks at diachronic changes in the placement and arrangement of haniwa figures, highlighting regional characteristics and the appeal of 13 ancient tombs that can actually be visited today. |
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110縄文時代
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縄文時代
約1万5000年前~約2900年前
■概要:この時代は土器の使用が始まった時代です。特徴的でしばしば華麗な装飾が施された土器(縄文土器)が、この時代に日本列島の様々な地域で作られました。人々は竪穴住居に住み、狩猟、採集、漁撈を基盤とした定住生活または半定住生活を送っていました。これらの社会は基本的に平等主義であり、明確な社会階層はありませんでした。彼らは豊かな精神文化を有し、土偶、男根石、そして祈祷、耳飾り、ペンダント、その他の身の回りの装飾に使用された多くの石器が用いられました。
■展示遺跡:神奈川県の上粕屋秋山遺跡では、縄文時代中期後期から前期~中期にかけての集落遺跡、そして東北地方起源の石剣が発見されており、これらの発見は集落のパターンや地域間交流を解明する上で重要な手がかりとなります。鹿児島県前田遺跡では、湧水が絶えず湧き出る低湿地帯で、縄文時代中期後期のドングリ貯蔵坑72基が発見されました。11万個を超えるドングリ、編み籠などの植物遺物が、非常に良好な状態で保存されていました。
Jomon Period
c. 15,000 BP to c. 2,900 BP
■Overview: This period marks the beginning of pottery use. The distinctive and often
ornate pottery (Jomon pottery) was crafted during this period in various
regions around the Japanese archipelago. People lived in pit dwellings
and led sedentary or semi-sedentary lives based on hunting, gathering,
and fishing. These societies were fundamentally egalitarian with no clear
social hierarchy. They had a rich spiritual culture, with Dogu clay figurines;
phallic stones, and many other stone tools used for prayer, ear decorations,
pendants and other personal accessories.
■Sites in exhibit: At the Kami-Kasuya Akiyama site in Kanagawa Prefecture, remains of settlements
from the Late Middle and Early to Middle Jomon periods were discovered,
along with stone swords originating from the Tohoku region, making these
findings key to understanding settlement patterns and interregional exchange.
At the Maeda site in Kagoshima Prefecture, 72 acorn storage pits from the
Late Middle Jomon period were found in a low-lying marshland that is constantly
replenished with spring water. More than 110,000 acorns, woven baskets,
and other plant-based artifacts were preserved in remarkably good condition. |
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120上粕谷・秋山遺跡
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121
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■上粕屋 秋山遺跡 Kami-Kasuya Akiyama site
■縄文時代中期後葉~後期中葉
■約4800~3800年前
■神奈川県伊勢原市上粕谷
東北の 石刀かかげ 墓マツリ
どんな遺跡かな?
上粕屋・秋山遺跡は、 上粕屋扇状地の台地上に立地する旧石器時代から近世にわたる複合遺跡です。
令和4・5年度に行った調査では、縄文時代中期後葉と後期前葉から中葉の集落が姿を現し、3時期にわたる竪穴建物を合計12棟確認したほか、3か所で配石遺構群が見つかりました。 |
上粕屋 秋山遺跡 |
どんな遺跡かな? |
遺跡の位置 |
縄文時代後期の遺構全景(南から)
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くわしくみてみよう
後期前葉から中葉の集落 では、台地斜面上に竪穴建 物が広がっており、敷石や石 組み炉が良好な状態に残っていました。
台地斜面下には、 配石遺構群が広がっており、約1400点もの石材を一定の形に並べて いました。 その下部で見つかった墓坑群は、 配石遺構群とおおむね同位置にあり、墓坑 からは副葬品とみられる土器が出土しています。 墓坑の上部の配石遺構群も、墓域に 関連した施設であると考えられます。 |
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下部墓坑群(南から) |
配石墓(上が東)
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副葬された土器 |
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くわしくみてみよう
出土遺物としては、配石遺構群から出土した萪内型石刀が注目されます。
特徴的な柄頭の形状と石材から、東北地方から搬入された可能性が高いことがわかりました。
上粕屋 秋山遺跡では、居住域と墓域を一体的に把握できたことで、 集落の様子が明らかになりました。
また萪内型石刀が出土したことは、東北と関東の交流を考えるうえで重要な発見です 。 |
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萪内型石刀
東京新聞
縄文後期の「石刀」出土 東北産か 伊勢原の遺跡で神奈川県内初
かながわ考古学財団は、国道246号バイパス(厚木秦野道路)建設に伴う「上粕屋・秋山遺跡」(神奈川県伊勢原市)の発掘調査で、縄文時代後期(約4千年前)につくられたとみられる「石刀(せきとう)」が出土したと発表した。財団によると、石刀が関東地方で見つかるのは珍しく、県内では初めて。
出土した石刀は長さ31・8センチで、幅は最大2・5センチ、厚さは最大1・6センチ。財団によると、実用性はなく、儀式などで使われたようだが、詳しい用途は分かっていない。曲がった刀身と、柄部分の溝などから東北北部を中...
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毎日新聞
縄文後期の石刀が神奈川で出土 関東で希少、東北から運ばれた?
公益財団法人かながわ考古学財団(横浜市)は、神奈川県伊勢原市上粕屋の「上粕屋・秋山遺跡8区」から、縄文時代後期(約4000年前)とみられる刀のような石の道具「石刀」が完全な形で出土したと発表した。完全な形での出土は県内初。祭祀(さいし)用とみられる。同財団は「東北地方北部を中心に見つかっている石刀と非常に似ており、他の地域との交流を示す貴重な資料だ」と話している。
同財団によると、同遺跡には石が規則的に並べられた配石遺構群が確認されている。縄文時代後期の遺構で、墓に関係するとみられる。石刀はその遺構の一角から今年2月に出土した。長さ31・8センチ、刀身の最大幅2・5センチ、重さ239グラムで、湾曲した刀身などの特徴がある。
発掘帖
配石遺構群の一部からは、「石刀」 が出土しました。石で作られた刀のような形状をしていることから名付けられていますが、詳しい使い方は分かっていません。
この石刀は柄頭部と柄部の境目に段差が あり、境界がはっきりとしています。 また、柄部の背側には浅い溝が確認されます。 このような形態的 特徴から、東北地方北部で出土する萪内型の石刀と考えられます。似ているものは新潟県や長野県、山梨県などで見つかっていますが、
萪内型の特徴をよく備えているものが関東地方で出土することは、とても珍しいです。 石材産地についても岩手県南部の粘板岩である可能性が考えられていて、今後のより専門的な分析が必要です。
萪内遺跡とは
AI Overview
萪内遺跡は、岩手県盛岡市繋字萪内川原にある縄文時代後期から晩期にかけての集落跡です。この遺跡は、御所ダム建設に伴う発掘調査で発見され、トーテムポール状の木製品や、縄文人の足跡が多数出土したことで知られています。湿地部からは赤色漆塗り弓やワニの形をした木製品、
そして88足にも及ぶ縄文人の足跡が発見され、貴重な資料として保存されています。
特徴
時代・所在地:縄文時代後期から晩期初頭(約4000~2300年前)の集落跡で、岩手県盛岡市の雫石盆地東南縁の扇状地に位置しています。
主な遺物・遺構:
木製品:漆塗りされた弓、トーテムポール風の木製品、人の形に似たワニの木製品など。
足跡:湿地部から88足もの縄文人の足跡が発見されています。
漁労施設:川岸に設けられた水汲み場や洗場、魚を誘導して捕らえる定置漁具「えり」などが検出されています。
その他の遺物:土器、石器、木製品、建材として使用された部材などが出土しています。
学術的価値:縄文人の生活、信仰、当時の自然環境や漁業などを復元する上で貴重な資料が多く出土しています。
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1-補 遺構配置図 (上粕谷・秋山遺跡)
縄文時代中期後葉の集落 (竪穴建物5棟) と後期の集落 (竪穴 建物7棟) が見つかった。 |
出土遺物
J133号墓坑
舟形土器
縄文後期
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J133号墓坑
鉢形土器
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深鉢片
J60号墓坑
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石皿
J19号墓坑 |
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鉢形土器
J17号墓坑
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J15号墓坑
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鉢形土器 |
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舟形土器 |
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双口土器
包含層
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鉢形土器 |
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鉢形土器
J18号墓坑 |
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140前田遺跡
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※春日式土器
春日式土器は九州南部を中心に分布する土器型式で,鹿児島市春日町遺跡を標式遺跡としています。
・器形は口縁部が内湾しながら外に開くキャリパー形の深鉢が主体で,器面には「貝殻条痕文」が施され,
・文様は無文または沈線や隆帯の渦文や曲線文が描かれています。引用「考古学ガイダンス第16回」 |
縄文土器深鉢(春日式)
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2-捕 前田遺跡の立地
赤色で示した調査区内の黄線内が低湿地部。 遺跡の北方にある 住吉池は約8,100年前にマグマ水蒸気噴火を起こした火口湖。 |
※前田遺跡の概要(必読)
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どんな遺跡かな?
前田遺跡は、 鹿児島県姶良市に所在する縄文時代中期後半 (約4,500年前) の遺跡です。
姶良市教育委員会による発掘調査により、遺跡の北側にある 池を起源とする湧水の流れる浅い谷状の低 湿地部が確認されています。
低湿地部では、 ドングリを貯蔵した土坑が72基確認され、 11万点以上のドングリが出土しています。 |
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どんな遺跡かな? |
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前田遺跡位置図 |
ドングリ貯蔵土坑の検出状況
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くわしくみてみよう
ドングリ貯蔵土坑から編みかごが14点出土 し、ドングリ類を中に入れて、 土坑内で水漬け していた可能性などが考えられています。
「もじ り編み」や「ござ目編み」 など、 当時用いられて いた技術が明らかとなりました。
かごの素材には、カズラなどのつる性植物を使 用したもののほか、イチイガシを割り裂きテー プ状に加工したものも使用されており、
イチイガシは食料としてだけでなく、編みかごの素材 としても利用されていたことがわかりました。 |
くわしくみてみよう |
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ござ目編み 編みかごA復元品
(もじり編み)

77cm,40cm |
もじり編み
断面図
編みかごB復元品
(もじり編み)
直径30cm
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※考察 イチイガシ イチイガシは渋が少なくそのまま食べられるドングリです。それを水に浸けていた理由は虫よけでしょう。
しかもこの水場貯蔵が72穴も見つかったということは、イチイガシが大量に採取できたということです。
しかし、イチイガシのみのシイの木林などは自然界には存在しないかと思います。するとこのように大量に採取できるためには、
自分たちで食べやすいイチイガシの木を選択的に育て、栽培してきたからではないでしょうか。
三内丸山遺跡の柴栗の栽培林以外にも、縄文人は生き延びるために、食糧確保を第一に、智恵を働かせていたと思います。
他にそのまま食べられるドングリには、スダジイ・マテバシイ・ツブラシイがあります。
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くわしくみてみよう
出土したドングリは99パーセント以上がア ク抜きせずに食べることができるイチイガシ であり、当時の縄文人が選択的に採集・保 管・貯蔵を行っていたことがわかります。 その 他、 木製品、木材、 クルミ、 ヒョウタンなど、数 多くの植物質資料が出土しています。 前田遺跡は南九州で初めて確認された縄 文時代の低湿地遺跡であり、当時の縄文人 たちの生活の様子や周辺環境がうかがえる 貴重な発見となりました。 |
くわしくみてみよう |
ドングリ貯蔵土坑 |
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石斧 |
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石鏃 |
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イチイガシ |
左半分:出土品
右半分:現生品 |
オニグルミ |
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※考察 オニグルミ
実の外観が凸凹しているのでオニグルミと名付けたが、実の直径は3cm程で、ドングリ同様小さな果実です。食用にするには膨大な量の採取が必須。
これらも、自然な自生にまかせたのではなく、やはり栽培したのでしょう。
基本的に、先史時代人が激しく遊動したのは、食糧を求めての決死の旅路であり、縄文人が定住できるようになったのは、気候の安定によって、
栽培と貯蔵が可能になったためです。考えてみてください。いま、山に行って木の実や(おいしい)野草が沢山生えていますか。
今夜の主食になる動物が、あっさり弓矢程度で、トンコロリと狩猟できるようにあなたを待っていますか。あり得ないことでしょう。
いくら土器に貯蔵できるようになった、といっても、貯蔵する食べ物がなければ、定住は出来ません。
栽培や、食品加工の技術が進み、煮沸によって可食植物や保存方法が進化し、更に又、交易によって食糧を得たりすることもあったかもしれません。
ただし、誰も彼もが飢えている縄文時代に、食べ物を交易するのは、よほどの重要なものとの引き換え以外には考えられないと思います。
青森県白神山地の山の中の遺跡では、生きたまま届けられたとしか考えられない貝殻が出土しており、誰かが海辺で潮干狩りした貝を、どんな方法か
白神山地の集落に届けました。道もなく険しい巨大な山岳の中をどのように駆け抜けて、どのような方法で殺さずに運んだのでしょう。
その貴重な貴重な貝と、いったい対価としてどんなものをもらったのでしょう。それは考えられないくらい貴重なものだったに違いありません。
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147編みかご
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編みかごB
SK99A2出土 |
編みかごB復元品
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編みかごC
SK132A出土 |
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編みかごA
SK146A1出土
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編みかごA復元品 |
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200弥生時代
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弥生時代
約2,900年前~約1,750年前
■概要:水稲稲作は中国大陸と朝鮮半島から列島へと体系的に広がりました。この時代は青銅、鉄などの金属器が用いられました。人々は簡素な素焼きの弥生土器を使用し、鐘、剣、槍といった青銅器は儀式の象徴として用いられました。この時代、各地域で社会統合が形成され始め、社会階層の発達も見られました。稲作は北の北海道や南の沖縄には及んでいませんでしたが、両極にはより古い文化につながる文化が残っていました。北海道では続縄文時代、沖縄では貝塚時代と呼ばれていました。
■展示遺跡:
福岡県高畑遺跡からは、弥生時代中期から後期にかけての広幅銅戟を鋳造した石鋳型2点が出土しました。広幅銅戟の鋳型は珍しく、今回も完全な形で一対で発見されました。
また、福岡県顕孝寺遺跡からは、弥生時代前期から中期にかけての甕墓6基と甕棺2基が出土しました。甕墓からは銅剣3本と銅槍3本が出土し、銅槍の木柄の先端も完全に残っていました。これら2つの遺跡は、北九州における青銅器の生産と普及を知る上で重要な発見です。
また、南九州の重要な弥生前期遺跡の一つである鹿児島県の高橋貝塚は、南方諸島と北西九州間の貝類交易の中継地として注目されていましたが、調査の結果、北西九州からもたらされた土器や石材が新たに発見され、この遺跡が弥生時代の九州交易の重要な物流拠点であったことが示唆されました。 |
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Yayoi Period
c. 2,900 BP to c. 1,750 BP
■Overview: Wet rice cultivation spread systematically from the Chinese mainland and the Korean peninsula to the archipelago. This period saw the use of bronze, iron and other metal tools. People used simple biscuit-fired Yayoi pottery and bronze instruments such as bells, swords and spears were used in rituals as their symbols. At this point, social integration of each area began to take shape, accompanied by the emergence of social stratification. Rice cultivation did not reach the northern island of Hokkaido nor Okinawa in the south, but these two extremes had cultures linking back to earlier cultures. In Hokkaido, this was called the Epi-Jomon period, and in Okinawa it was called the Kaizuka (shell mound) period.
■Sites in exhibit: At the Takabatake site in Fukuoka Prefecture, two complete stone molds
used to cast wide bronze halberds from the Middle to Late Yayoi period
were excavated. Molds for wide bronze halberds are rare, and these were
found as an intact pair. At the Kenkoji site in Fukuoka Prefecture, six
jar burial tombs and two jar coffins from the Early to Middle Yayoi period
were unearthed. Three bronze swords and three bronze spears were excavated
from the jar burial tombs, and the tips of the wooden handles of the bronze
spears remained intact. These two sites are important discoveries in understanding
the production and spread of bronze tools in Kitakyushu. Additionally,
the Takahashi shell mound in Kagoshima Prefecture, one of southern Kyushu's
most important Early Yayoi period sites, had attracted attention as a stop-off
point for shellfish trade between the southern islands and northwestern
Kyushu, as a result of review, pottery and stone materials brought from
northwestern Kyushu were newly discovered, suggesting the site served as
a key distribution hub for trade in Kyushu during the Yayoi period. |
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| 201弥生時代
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210顕孝寺遺跡
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AI による概要
顕孝寺遺跡(けんこうじいせき)は、福岡県福岡市東区多々良にある、弥生時代前期後半〜中期初頭の複合遺跡です。
多々良川河口の丘陵上に位置し、48基もの貯蔵穴群が検出されたほか、中世の建物跡や中国製磁器など対外交渉の痕跡も出土している、古代から中世の歴史を伝える重要な遺跡です。 |
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211
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■顕孝寺遺跡
■弥生時代中期前葉~中頃
■約2200年前
■福岡県福岡市東区多々良1丁目28-1
逝くときは 剣・矛とともに 甕棺に
どんな遺跡かな? (甕棺墓)
顕孝寺遺跡は、博多湾岸東部の多々良川に 沿って形成された丘陵上に立地しています。 宅地開発に先立ち実施した調査では、丘陵頂部で
弥生時代中期前葉から中頃(約2200年前) の成人棺6基と壺棺2基の計8基の甕棺墓が確認され、 成人棺4基から銅剣3本と銅矛3本が出土しました。 |
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くわしくみてみよう
21号と107号甕棺墓には銅剣と銅矛の両方が副葬され ていました。木製の柄の先端が遺存していた矛には棒状の持ち手があり、剣にも木柄が付いていたと考えられます。
青銅武器は、 金属器に特殊な力を感じていた弥生人が魔 除けや豊作祈願のマツリの道具として用いた可能性や、剣や矛の先端部に欠けや刃こぼれが見られることから、敵対する集団との戦いで使用され、欠損したとも考えられます。 |
くわしくみてみよう |
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21号甕棺墓 銅剣a(右) 銅矛a (左)
出土状況 (東から) |
107号甕棺墓 銅剣d(下) 銅矛d(上)
出土状況(北東から) |
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くわしくみてみよう
59号甕棺からは、被葬者胸部付近で木柄が遺存する銅矛bが、 先端を頭部に向けて出土しました。柄は埋葬時に折られたと考えられます。 顕孝寺遺跡は、 従来青銅器の出土例が少なかった福岡平野東部の空白を埋める事例として 注目されるとともに、 青銅武器が広まり始めた 頃の金属器受容の過程を示すものとして貴重な 発見です 。 |
くわしくみてみよう |
59号甕棺墓出土状況 |
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215
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3-補 青銅武器
弥生時代中期初頭 (約2300年前) に、有力層の墓に朝鮮半島の系譜を持つ 剣・矛・戈 などの青銅武器が副葬されるようになる。
弥生時代中期後葉になると、 青銅武器は巨大化し刃が鋭く研ぎ出されなくなるなど武器としての機能を失い、武器形の祭器として埋納されるよう になる。
銅矛
中国では3500年ほど前の 商 (殷) 代に登場し、朝鮮半島を経由して九州北部 に伝わりました。 |
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3-補 青銅武器 |
※半島系の武器を持ち込んだ有力層は、やはり半島人でしょうね。 |
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3-補 青銅武器
弥生時代中期前葉から中頃にかけて、佐賀平野で生産された長大化した青銅武器は、別府湾ルートと北九州ルートに分かれて瀬戸内や日本海側へもたらされた。
顕孝寺遺跡は瀬戸内地域北岸や山陰を結ぶ北九州ルートの中継点に位置しており、当時の青銅武 器の流通ルートを知る上で重要な遺跡である。 |
3-補 青銅武器 |
青銅器出土遺跡の分布と青銅器流通ルート |
※柚比本村遺跡で生産された青銅器が、北部九州各地の名立たる遺跡へと送られる、大変重要な地図です。
※考察 柚比本村遺跡の銅器生産
王莽からもらった華北産の銅が、筑後川の舟運によって運ばれ、周辺山地からの木炭で生産した
のでしょうか。するとこの銅を得るために朝貢していた都市国家(クニ)があったのでしょう。
当時の中国では銅器から鉄器へ変わり、銅の価値が著しく下がったため下賜されたのでしょう。
これらの銅を使って銅鐸・銅矛・銅剣・銅戈が作られ、西日本から東海へ運ばれ、
その後、回収されて、銅製の飾や後には倭鏡にも使われたとされています。 |
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3-補 甕棺墓
弥生時代の九州北部で盛んに行われた埋葬法で、 甕棺と呼ばれ る専用の土器を用いるのが特徴。
甕棺の合わせ目付近で棺外に副葬された銅矛aが、 棺内からは 銅剣aと石剣の先端部が出土。
3-補 甕棺墓配置図
8基の甕棺墓は東西16mの範囲に集中していた。赤色の甕棺は青銅武器が副葬された甕棺墓。 |
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甕棺墓 21号甕棺墓(東から) |
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3-補 甕棺墓配置図 |
甕棺墓配置図
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甕棺墓一覧 |
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銅矛a、木柄
21号甕棺墓出土銅矛
銅剣a
21号甕棺墓出土銅剣
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銅矛b、木柄
59号甕棺墓出土銅矛
銅剣c
60号甕棺墓出土銅剣 |
銅矛d、木柄
107号甕棺墓出土銅矛
銅剣d
107号甕棺墓出土銅剣 |
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230高畑遺跡
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AI による概要
福岡市博多区板付にある高畑遺跡は、弥生時代後期(1〜2世紀)の青銅器鋳造や集落の様子を示す重要な遺跡です。
特に2022年の第23次調査では、弥生時代の青銅武器「広形銅戈(ひろがたどうか)」の鋳型(鋳造用の型)がセットで出土し、周辺が青銅器生産地であった可能性が高まっています。
主な特徴と成果
・場所と時代: 福岡市博多区板付6・7丁目付近。弥生時代から古墳時代の遺跡。
・青銅器鋳造の証拠: 第23次調査で、広形銅戈の鋳型がセットで発見され、青銅を溶かして流し込む「取瓶(とりべ)」も出土。
・周辺の遺跡: 日本最古の稲作痕跡がある板付遺跡の至近に位置し、当時の先進的な技術と社会構造を物語る。
・出土遺物: 鋳型以外にも、木製品(又鍬、平鍬など)、土師器、須恵器、鉄器など多岐にわたる。
・関連施設: 出土品は福岡市埋蔵文化財センターにて確認できる場合があります。
・福岡市の文化財ニュースでは、広形銅戈の鋳型セットについての詳細なレポートが公開されています。
・文化遺産オンラインにて、高畑遺跡で出土した弓の情報を閲覧できます。
この遺跡は、福岡平野における弥生時代の金属器生産と人々の生活を理解する上で、非常に貴重な現場です。 |
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どんな遺跡かな?
高畑遺跡は福岡平野中央部を流れる御笠川、那珂川の中下流域に位置し、遺跡の北側には日本最古級の水田が見つかった史跡板付遺跡が、
西側には比恵・那珂遺跡群、 井尻B遺跡、やや離れて青銅器工房や王墓などが見つかった須玖遺跡群などが広 がり、
これら全てが 『後漢書』東夷伝に記された 「奴国」 を構成する遺跡です。 |
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くわしくみてみよう
調査区南東には、 南北に抜ける浸食谷が あり、弥生時代中期末から後期中頃の自然 流路を確認しました。 流路が埋没した後に 堆積した層からは、弥生時代後期中頃
(約1900年前) のものと考えられる石製広形銅戈鋳型2点が一対と、溶かした青銅を鋳型に流し込むための取瓶が見つかり、集落内で鋳造が行われていたとみられます。 |
くわしくみてみよう |
第23次調査区の遺構配置図 |
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くわしくみてみよう
武器形青銅器は、次第に大型化し、 武器から、マツリの道具として使用されました。 広形銅戈はその変化が最も進んだもので、
その鋳型は7例ほどが報告されているのみです。 出土例が少ない広形銅戈鋳型が完全な形で一対で発見されたことは、鋳造技術の解明のみならず、 「奴国」での青銅器生産の実
態を考える上で重要な成果です。 |
くわしくみてみよう |
広形銅戈型出状况 |
鋳型が出土した層からは、 多量の弥生土器、 取瓶、 青銅鏡、石器などが含まれていた。 |
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233
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4-補
高畑遺跡出土広形銅戈鋳型の観察
鋳型Aは、 戈の先端部に横方向の凹み (▷) があり、 鋳型の再利用を示す。 被熱痕跡がないこと から、再加工を行ったが実際には鋳造を行わなかった可能性がある。 鋳型Bは、割れ口に被熱黒変 した部分が認められ、連結して鋳出する鏃 () が彫られている。
このことから、 鋳型Aには鏃が彫られたプロトタイプ (試作品) が存在し、 このプロトタイプAと鋳型Bを用いて鋳造が行われた可能性があり、改変を加える途中で廃棄されたと考えられる。 |
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4-補
高畑遺跡出土
広形銅戈鋳型の観察 |
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3D画像
鋳型A、鋳造面、背面 |
鋳型B、鋳造面、背面 |
広形銅戈鋳型 |
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235
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4-補 奴国
中国 (後漢)の歴史書『後漢書』東夷伝の記載や、建武中元2年 (57年) に後漢王朝より下賜された金印に記された 「漢委奴国 王印」の表記などから北部九州に 「奴国」 が所在し、これまでの 発掘調査成果等からその範囲は博多湾沿岸部から福岡平野に あったことが分かっている。
奴国には青銅器工房が置かれ、その生産物は周辺国との政治的 な関係により配布されるなど、広く流通した弥生文化を代表する 器物となる。 |
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4-補 奴国
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4-補 鋳型から鋳造される銅戈の3D画像
鋳型の3D計測を行い、 銅戈を復元したもの。 鋳型Bの銅戈が1セ ンチほど長く、表裏が完全には合致しない。
長さ443ミリ、 幅206ミリ、厚さ4~18ミリ。 |
4-補
鋳型から鋳造される
銅戈の3D画像 |
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4補 取瓶
鋳型と共に取瓶が出土したことにより、この場所で鋳造が行われ たことが分かった。 出土した取瓶は全て破片で、少なくとも3個体 以上ある。 写真はそのうち最も残りの良いもの。 円柱形の脚台が 付き、注口が開く。 内壁に銅滓が付着している。
内容量は2リットル強。 |
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250高橋貝塚
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251
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■高橋貝塚
■縄文時代晩期~弥生時代後期初頭
■約2800~2000年前
■鹿児島県南さつま市金峰町高橋93
海こえて 人がつながる 貝の道
どんな遺跡かな?
高橋貝塚は、 鹿児島県南さつま市に所在する南九州 の弥生時代前期(約2,500年前)を代表する貝塚です。
昭和30年代に地元の考古学者である河口貞徳により発掘調査が行われ、 弥生時代前期の沖縄・奄美と北部九州間の貝輪交易において、中継地として機能していたことがわかっていました。
また、弥生時代前期の高橋式土器の標式遺跡として、 学史的に著名な遺跡でもあります。 |
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高橋貝塚 |
どんな遺跡かな |
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高橋貝塚位置図
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「縄文時代前期の層
(昭和30年代の調査時)
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くわしくみてみよう
今回、同氏の資料が一括して県へ寄贈され たことを受けて、 鹿児島県立埋蔵文化財セン ターが再整理と再評価を行いました。 その 結果、これまで知られていた弥生時代前期中 葉から後葉の上層に当たる弥生時代前期末 から中期 (約2,300年前) の層から、土器や 石器が多く出土していることが判明しました。
土器や石器には佐賀平野や筑後地方など、有明海沿岸部のものが多く含まれており、有明海を通じた交易の存在が考えられます。 |
くわしくみてみよう |
各層ごとの出土遺物 |
菫青石(きんせいせき、コーディエライト)は、青紫色の美しいマグネシウムのケイ酸塩鉱物です。宝石名「アイオライト」や「ウォーターサファイア」とも呼ばれ、多色性が強く、見る角度で色が変わります。
第Ⅲ層(約2500年前)弥生前期後葉(高橋Ⅱ式土器期)にゴホウラ等の粗加工をしていた。 |
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くわしくみてみよう
これまで、 沖縄・奄美で作られていた貝輪加工品が、 弥生前期末以降に中継地を介さず 消費地である北部九州に届くようになると、 高橋貝塚の存在価値は低下し、遺跡は衰退するといわれていました。 しかし、今回の再整理・再評価により、 高橋貝塚の役割は終焉をむかえず、前期末~中期初頭に有明海ルート が開かれても、高橋貝塚は、 中継地として、 変わらず機能していたことがわかりました。 |
くわしくみてみよう |
貝交易の外海ルート・
有明海ルートと
当時の 主な遺跡 |
貝輪材料の移動ルート
沖縄・奄美⇒高橋遺跡⇒有明海ルート⇒佐賀平野→吉野ケ里遺跡etc
⇒海外ルート ⇒福岡平野→立岩遺跡 |
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253夜臼式土器
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AI による概要
夜臼式土器(ゆうすしきどき)は、縄文時代晩期末から弥生時代早期(約2,500〜3,000年前)に北部九州で使われた土器で、縄文から弥生への移行期を代表する「刻目突帯文(きざみめとったいもん)土器」の一種です。
特徴は粘土紐を貼り付けた突帯に刻み目があり、稲作の伝来と共に貯蔵用の「壺」が加わった点です。
主な特徴と意義
・時期と場所: 縄文晩期終末〜弥生早期。福岡県の夜臼(ゆうす)遺跡などで発見された。
・形態と文様: 伝統的な縄文土器の技術(貝殻での調整など)を残しつつ、口縁部にヘラや爪で連続的な刻み目を入れた「刻目突帯」が特徴。
・用途の拡大: 煮炊き用の「甕(かめ)」に加えて、稲作の始まりを象徴する穀物貯蔵用の「壺」が定着した。
・渡来文化の兆し: 朝鮮半島の影響を受けた赤色顔料(丹)を塗った土器や、支石墓という埋葬形態も伴う。
この土器が使用された層から水田遺構が発見されたことから、日本における稲作農耕の開始を語る上で欠かせない資料となっています。 |
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夜臼式土器 |
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夜臼式土器深鉢 |
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夜臼式土器(籾圧痕)
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圧痕レプリカ |
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255
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5補 ゴホウラ貝輪と貝加工品
ゴホウラの腹面・背面の中央に孔が開けられた加工品や縁辺を 切り取った残滓が多く出土。 奄美・沖縄から入手した貝を高橋貝 塚で粗加工を行い、 西北九州に供給していました。 |
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5-補
ゴホウラ貝輪と貝加工品
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骨角器
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擬無文土器※ |
パイプ形土製品 |
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※擬無文土器
AI Overview
「擬無文土器」とは、朝鮮半島に起源を持つ無文土器が、弥生土器の影響を受けて変容し、文様が施されるようになった土器を指す専門用語です。
本来の無文土器は表面に装飾がほとんどない土器ですが、集団が日本列島(特に北陸地方など)に移り住む過程で、在来の弥生土器の技術や様式を取り入れ、文様が付けられるようになった際に「擬無文土器」と名付けられました。
ポイント
由来:朝鮮半島から伝わった無文土器が、日本(特に北陸地方)の弥生土器の影響を受けて変化したもの。
特徴:表面に文様が施されるようになった点。
意味:「無文土器」の形を「擬して(似せて)作られた」土器という意味合い。
背景:集団の文化が土器の形に影響を与え、変容を遂げる過程で生まれた。
つまり、「擬無文土器」は、交流や文化伝播の中で土器に生じた変化を理解するための重要な概念と言えます。 |
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| 256他地域の土器
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| 257丹塗り土器
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258甕棺破片
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筑後(前期末)
北部九州(前期末) |
佐賀平野(中期中葉)
筑後(中期中葉)
北部九州(前期末) |
佐賀平野(中期後半)
黒髪式(中期後半)
北部九州(後期初頭)
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261
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5-補 西北九州産の石器
高橋貝塚で出土した石器のうち、 黒曜石 (左) はほぼ佐賀県伊万里市の腰岳、安山岩 (右)は佐賀県多久市産出のものが使われており、石材の選択性が強く働いていることがうかがえます。 |
層灰岩製片刃石斧
未成品 |
層灰岩:
朝鮮半島南部産の石材 |
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※層灰岩
「層灰岩」とは、火山灰や火山砕屑物が、水中で砂や泥などの他の堆積物と混ざり合って形成される堆積岩の一種です。一般に明瞭な層理(層状の構造)を示し、火山砕屑物が水底に運ばれて他の堆積物ととも沈殿・堆積してできた岩石です。
主な特徴
生成過程:火山から噴出した火山灰や火山砕屑物が、流水によって海や湖に運ばれ、通常の砂や泥といった水成砕屑物と共に堆積沈殿してできる。
構成物質:火山灰や火山砕屑物のほか、砂、シルト、泥などの普通の堆積物が含まれます。
層理:水底で堆積するため、一般的に他の堆積物と同様に明瞭な層状の構造(層理)が発達しています。
分類:火山灰が主体で、細粒砕屑物が多少混ざるものを層灰岩と呼びます。
火山砕屑物が卓越すると凝灰質砂岩や凝灰質頁岩、火山砕屑物が主体の場合は凝灰岩と区別されます。
関連する岩石
凝灰岩:主として火山灰が固まってできた岩石を指します。層灰岩と似ていますが、層灰岩は他の堆積物との混合がより顕著です。
火山砕屑岩:火山灰、火山礫、火山岩片などの火山噴出物が固まってできた岩石の総称です。層灰岩はこの火山砕屑岩の一種が、他の堆積物と混ざってできたものです。 |
菫青石製石包丁 |
菫青石:
対馬産の石材 |
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※菫青石
菫青石(きんせいせき、コーディエライト、アイオライト)とは、鉄、マグネシウム、アルミニウムを含む珪酸塩鉱物で、見る角度によって色が変化する強い「多色性」が特徴の鉱物です。和名では菫青石、英語ではコーディエライト、宝石名としてはアイオライトと呼ばれ、変成岩中に多く産出します。
主な特徴
多色性(アイオライト):最も大きな特徴は、見る角度によってすみれ色、青色、淡黄色など、色が変化して見えることです。
この特性から「二色石」「海のサファイア」とも呼ばれ、宝石(アイオライト)として利用されます。
組成:マグネシウムとアルミニウムを含む珪酸塩鉱物です。
結晶系:斜方晶系に属します。
産状:泥質ホルンフェルス、黒雲母片麻岩、ペグマタイトなどの変成岩中に多く産します。
別名・通称:
コーディエライト:フランスの鉱山技師ルイ・コルディエにちなんで名付けられた英語名です。
アイオライト:ギリシャ語で「青」を意味する「ion」と「石」を意味する「lithos」が語源で、菫青石の宝石名です。
イボ石:日本では、泥岩が変成してできたホルンフェルス中に、菫青石が疣状に凸部を作ることから「イボ石」と呼ばれることがあります。
用途
宝石・装飾品:透明で質の良いものは、その美しい多色性から宝石(アイオライト)として宝飾品に利用されます。
耐火材:高温に耐える性質があるため、耐火材としても使用されることがあります。 |
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磨製石製品
石剣
磨製石鏃 |
今山産磨製石斧
磨製石剣 |
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300古墳時代
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古墳時代
約1750年前~約1400年前
■概要:この時代は、社会階層の分化が進み、近世を中心とした広い地域に国家が形成されました。各地で首長の墓(大型の土盛りの墳丘墓)が数多く築造されました。これらの墳丘墓からは、青銅鏡や鉄製武器など、多くの副葬品や装飾品が出土しました。墳丘墓の上部や周囲には、様々なものを表現した素焼きの陶器(埴輪)が並べられています。この時代は、初期国家の形成期にあたります。古墳文化は東北北部や北海道、南の島々には及ばず、そこでは独自の文化が発展を続けました。
■展示物:
熊本県の浄閑塚遺跡では、発掘調査で発見された円墳の頂部から、家や柵を模した円形の埴輪が出土しました。これらの装飾文様は、地元の古墳の石室に見られるものと類似しており、装飾墓文化の中心地である熊本特有の地域性を反映しており、埴輪にもそれが反映されています。
大阪府御陵東遺跡では、古墳時代後期の建物跡や水田跡、そして水田を灌漑していたと考えられる水路が発見されました。溝からは、他の古墳から出土した人型埴輪も発見されており、水にまつわる祭祀に用いられたと考えられています。 |
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Kofun Period
c. 1,750 BP to c. 1,400 BP
■Overview: This era saw increased social stratification, and the emergence of a polity
extending over a broad swatch centered around the Kinki region. Many tumuli
(kofun - large, earthen burial mounds) were constructed for local chieftains
in various areas. These mounds contain many funerary goods and ornaments,
including bronze mirrors and iron weapons. Arranged above and around the
tumulus are biscuit-fired ceramics (haniwa) representing various things.
This stage brings us up to the formation of the early state. The kofun
culture did not extend to northern Tohoku, Hokkaido, or the southern islands,
where distinct cultural developments continued.
■Sites in exhibit: At the Jokanzuka site in Kumamoto Prefecture, haniwa figures shaped like
houses and fences, decorated with circular patterns, were found atop a
circular burial mound revealed during excavation. These decorative patterns
resemble those found on local stone chambers of burial mounds, reflecting
regional characteristics unique to Kumamoto, a center of decorated tomb
culture, which are also reflected in the haniwa figures. At the Misasagi-Higashi
site in Osaka Prefecture, remains of buildings and rice paddies from the
Late Kofun period, were discovered, along with a water channel thought
to have irrigated the paddies. Human-shaped haniwa figures from other burial
mounds were found in the ditch, and are thought to have been used in water-related
rituals. |
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301古墳時代
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310上官塚古墳
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311
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■上官塚遺跡
■古墳時代中期前半
■5世紀前半
■熊本県嘉島町上島545 熊本県上益城郡嘉島町大字井寺
埴輪にも 吊るした鏡 肥後らしさ
どんな遺跡かな?
熊本県中央部の嘉島町に所在する上官塚遺 跡は、南北を加勢川と緑川に挟まれた丘陵地 に立地します。 古墳は現在30基以上が確認さ れており、これらを上官塚古墳群と呼びます。 すべて円墳で、埋葬施設が横穴式石室のもの と箱式石棺のものに分かれます。 直径10メート ルの小さいものから30メートル以上のものまで さまざまですが、 5世紀前半のSZ09は直径30 メートルを超える大型の円墳です。 |
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上官塚古墳 |
どんな遺跡かな |
遺跡位置図
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遺跡位置図 |
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くわしくみてみよう
Sz09は、 直径35メートル以上で、墳丘は削平されていましたが、 周濠から家形埴輪、 囲形 埴輪、 朝顔形埴輪、 円筒埴輪、 壺形埴輪や、
土師器の高杯などが出土しました。
家形埴輪と囲形埴輪を組み合わせて配置した のかは分かりませんでしたが、 両者には共通して正面側に円文が施されています。 家形の円文の 上方には、
2本一組の縦方向の線刻が施されて いますが、囲形にはこの縦の線刻はありません。 |
くわしくみてみよう
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SZ09 検出状況 |
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くわしくみてみよう
埴輪に円文が施されるのは珍しいですが、類似した文様に装飾古墳の円文を挙げることができます。
SZ09と同時期の八代市の大鼠蔵東麓1号墳の箱式石棺の西側壁では、円文とその上方に2本一 組の縦方向の線刻が確認できます。
これらの円文は、鏡がモチーフではないかという説もあり、鏡を吊り下げていることを表現しているのかも しれません。 近傍の史跡井寺古墳の装飾にも円文
が施されており、SZ09の家形埴輪と囲形埴輪は、 装飾古墳のメッカである肥後らしさが埴輪にも表現 された希少な事例と言えるでしょう。 |
くわしくみてみよう |
八代市大鼠蔵東麓1号墳
箱式石棺の西側壁
線刻画
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6-補 大鼠蔵東麓1号墳
箱式石棺の装飾線刻画
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6-補 大鼠蔵東麓1号墳の装飾
装飾が確認できたのは西側壁のみ。 赤色の彩色が残る。 大刀や短甲 など種類が豊富。5世紀前半。墳形不明。
弓(船?)、5本の矢を並べた靫(ゆぎ)、三角板を使った短甲
大刀
円文と縦方向の線刻
熊本県教育委員会2020 「八代海周辺の装飾古墳発生と展開」より作成 |
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312
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6-補 SZ09平面図
墳丘は削平されていたが、 周濠の他、 古墳の中央部付近では、 箱式石棺の痕跡とみられる石材や赤色顔料がわずかに遺存していた。 |
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| 313囲形埴輪
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314家形埴輪
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※家型埴輪
入母屋造りの建物構造は、兵庫県古井家住宅にそっくりで室町時代末の建築であるが、周囲を土壁で覆った構造など、
古墳時代から室町末期までや、それ以降も、戦乱や野盗の襲撃に備えた構造として、ほぼ変化しなかったものとみられる。
一方、同じ古建築でも神戸市箱木千年屋の外観は、室町・江戸の建築ではあるが、少し開放的で、時代の安定を想像させ。 |
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315
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左からD,C,B,A |
円筒埴輪A |
円筒埴輪B,A |
円筒埴輪B |
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朝顔形埴輪C |
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壷形埴輪D |
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朝顔形埴輪C |
円筒埴輪B |
円筒埴輪A |
壷形埴輪D |
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316高坏
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土師器 高坏 |
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須恵器 坏身蓋 |
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SZ09より新しく、
周辺からの流れ込みと見られる。 |
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330陵東遺跡
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■陵東遺跡 Misasagi Higashi site
■古墳時代前期末~後期後半
■14世紀末~6世紀後半
■大阪府羽曳野市島泉8丁目 藤井寺市恵美坂2丁目
埴輪たち 再就職で 水守に
くわしくみてみよう
注目すべきは、人物埴輪群が横倒しに据え置かれた古墳時代後期後半の溝の発見です。
出土した人物埴輪群は、 力士埴輪・盾持人埴輪・男子埴輪 石見型埴輪・筒形土製品の順で設置され、
力士埴輪・盾持人埴輪・男 子埴輪・石見型埴輪はいずれも人為的に破壊されていました。 |
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陵東遺跡 |
くわしくみてみよう |
遺跡全体図
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畦畔
水田
畦畔
支溝
主溝
人物埴輪群
くぼ地
掘立柱建物
畦畔
水田 |
人物埴輪群
出土状況平面図 |
男子埴輪
石見型埴輪
筒形土製品
盾持人埴輪
力士埴輪 |
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くわしくみてみよう
本来、埴輪は古墳の墳丘に立て並べるため のものであり、水田域での出土は全国的に も極めて珍しい事例です。 水田に水を供給 するための水路として掘られた溝に設置さ れていたことを踏まえると、この人物埴輪群 は農耕に関する祭祀の痕跡であると想定さ れます。 古墳時代の祭祀の在り方を考える 上で貴重な事例となりました。 |
くわしくみてみよう |
人物埴輪群の出土状況
(南から) |
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どんな遺跡かな?
陵東遺跡は、 羽曳野丘陵から北に延びる段 丘北端部に位置し、段丘が侵食されること で形成された谷の中に立地しています。 道路建設に先立ち実施した令和2年度の発 掘調査では、 古墳時代前期末の竪穴建物や 井戸、古墳時代後期後半の掘立柱建物や 溝、 水田など、 古墳時代の集落と生産域が 見つかりました。 |
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7:補 運び込まれた埴輪
力士埴輪・盾持人埴輪・ 男子埴輪・石見型埴輪はいずれ も人為的に破壊されていた。 各埴輪の破片が周囲から 出土しており、 破壊は溝の中で行われたと考えられるが、 破片を接合しても完全な形には復元できない。
また、盾持人埴輪・男子埴輪は、古市古墳群内の埴輪窯 で5世紀後半に製作されたと考えられ、6世紀後半と推 定される溝の掘削時期とは約100年の時期差がある。 こ れらを考え合わせると、埴輪は元々別の場所に据えられ ていたものが運び込まれたと推測される。 |
7:補 運び込まれた埴輪 |
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333盾持人埴輪
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335力士埴輪
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400古代
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古代
約1400年前~約900年前
■概要:この時代に日本という国家が誕生しました。律令制をはじめとする法典化された刑罰法や行政法、そして中国の隋・唐、そして朝鮮半島の百済・新羅の統治記録といった国家形成のモデルを参考に、飛鳥地方を中心とする中央集権国家が形成されました。
都は飛鳥時代の飛鳥地方から奈良時代に平城、そして平安時代に平安(京都)へと遷都されました。仏教の伝来により、各地に寺院が建立され、広大な行政区域「クニ」と、周辺地域を統制するための中規模の行政区域「グン」に地方官庁が置かれました。北海道と沖縄は国家の支配下にありませんでした。北海道には擦文文化が、沖縄には貝塚時代が続きました。
■展示遺跡:新潟県にある蘇我墓所遺跡は、奈良時代から平安時代にかけての集落跡です。浅い坑道からは、仏具や用途不明の特殊な土器など、祭祀に用いられたと考えられる遺物が多数発見されています。日本海に流れ込む川沿いに位置していたことから、この地域の物流拠点として機能していた可能性が示唆されています。
Ancient Period
c. 1,400 BP to c. 900 BP
■Overview: It is during this period that the state of Japan emerged. Drawing on models
for national-building, including the ritsuryo system of codified penal
and administrative laws, and documented governance from China's Sui and
Tang dynasties, as well as from the Baekje and Silla kingdoms on the Korean
peninsula, a centralized national state was formed, centered in the Asuka
region. The capital was moved from Fujiawara during the Asuka period to
Heijo in the Nara period, and then to Heian (Kyoto) during the Heian period.
The transmission of Buddhism led to the construction of temples in many
areas, with local government offices built in large administrative regions
known as kuni, as well as medium-sized units called gun in order to control
outlying areas. Hokkaido and Okinawa were not under national control. Hokkaido
had its Satsumon culture and in Okinawa the Kaizuka period continued.
■Sites in exhibit: The Soga-Bosho Site in Niigata Prefecture contain remains of a settlement
from the Nara to Heian periods. Numerous artifacts, including Buddhist
altar implements and special clay products of uncertain purpose, found
in a shallow pit, are believed to have been used for rituals. Situated
besides a river that flows into the Sea of Japan, the site may have served
as a regional logistics hub. |
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401古代
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410曽我墓所遺跡
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411
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■曽我墓所遺跡
■奈良時代後半~平安時代初頭
■8世紀後半~9世紀初頭
■ 新潟県新潟市江南区横越字下郷6052番地ほか
錫杖頭 鳥形製品 環状瓶
どんな遺跡かな?
曽我墓所遺跡は、新潟市北部を流れる阿賀野川の河口から10kmほど内陸の左岸に 立地する奈良時代後半~平安時代初頭の 集落遺跡です。
令和元・2年度に発掘調査を行い、調査区 の北東側では、竪穴建物や掘立柱建物が 複数確認される居住域を、 南西側では東西 に延びる溝が何条も検出され、 畑などの生 産域が広がることを確認しました。
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曽我墓所遺跡 |
どんな遺跡かな |
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遺跡位置図 |
遺跡遠景(北西から) |
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くわしくみてみよう
居住域の西側では、浅い窪み状の遺構が 複数見つかり、 須恵器や土師器とともに通 常の集落では見られない特殊な遺物が出 土しました。 祭祀に用いられた後そのまま廃 棄されたものとみられ、わずかな凹みや傾斜 を利用した祭祀が推測されます。 |
くわしくみてみよう |
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遺構上部 |
遺構下部 |
遺構④の遺物出土状況
(西から)
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横瓶
鉄鐸の舌f
大型甕 |
くわしくみてみよう
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遺構④の遺物出土状況
(西から)
横瓶,鉄鐸の舌f,大型甕 |
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特殊な遺物出土範囲

特殊な遺物出土遺構は
遺構➀②③④ |
遺構➀横型環状瓶
鳥形製品頭部AB
鳥形製品脚部D
鉄製錫杖頭
鉄鐸の鐸身ab
遺構②鳥形製品体~脚部C
遺構③鳥形製品体部
遺構④横瓶,鉄鐸の舌f,大型甕 |
・特殊な遺物出土遺構
・竪穴建物,竪穴状遺構
・掘立柱建物
・カマド
・畝状溝(畑) |
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鳥形製品体~脚部C
鉄鐸の鐸身C
須恵器大型變
横瓶
鉄鐸の舌
横型環状瓶
鳥形製品頭部A·B
鳥形製品脚部D
鉄製錫杖頭
鉄鐸の鐸身a.b |
鳥形製品体部
遺構③
遺構④
遺構②
遺構➀ |
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鉄鐸の舌 h
鉄鐸の鐸身d
鉄鐸の舌e
鉄鐸の舌 g
特殊な遺物出土範囲
井戸
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くわしくみてみよう
祭祀に用いられたとみられる特殊な遺物には、 須恵器横型環状瓶や鳥形製品、 鉄製錫杖頭、鉄鐸などがあります。 横型環状瓶は、全国でも6例しか確認されていない特殊な器形の須恵器です。 鳥形製品も須恵質の土製品で、水鳥の姿を立体的に表現していますが、 用途は不明です。 また、鉄鐸は 祭祀具、鉄製錫杖頭は仏具と考えられます。 官衙や 仏教との関連をうかがわせる祭祀の様子が明らかになった興味深い調査成果です。 |
くわしくみてみよう |
遺構➀の遺物出土状況(北から)
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横型環状瓶
散らばった鉢
鳥形製品頭部B
高杯
錫杖頭
鉄鐸の鐸身a
鉄鐸の鐸身b
鳥形製品頭部A
はそう |
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413水鳥形埴輪
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遺構③出土
無台坏,鳥形製品体部
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無台坏 |
鳥形製品体部 |

左:タカのような
右:カモのような |
遺構②出土
鳥形製品体部
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415
遺構④出土 |
須恵器
壺,無台付 |
壺,無台付
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鉄鐸の舌
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横瓶
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その他の遺構出土 |
鉄鐸の舌
※鉄鐸が沢山あった |
鉄鐸
※尖がった鉄鐸
舌はどうやって付けた |
錫杖頭力 |
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430古きを守る新しきわざ
■X線の力
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錫杖や鉄鐸などの金属製品の保存修 復の際には、X線写真撮影をすることで 状態確認を行います。 錫杖には、目視観 察からも指摘されていた帯状の有機質が 表面に巻き付けられていた可能性が高い ことが改めて示されました。 |
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■X線の力 |
上 錫杖のX線写真と
下 有機質の痕跡  |
■有機質情報を残す
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錫杖のほか、鉄鐸や舌も有機質で覆われていた可能性が認められました。本来 あったこうした情報を取り出すことは考古 学研究に有益であると考えられており、保
存修理の際には最新の研究動向へ応え ることも求められます。 クリーニングにおい でもサビ取りは極力行わず、確実に土と分 かる部分のみを除去することにしました。 |
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有機質に配慮した作業
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■活用のための接合・復元➀
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錫杖は、複数に分割した状態で出土しました。 本来の形通りに復元したいところですが、 全体を接合してしまうとバランス が悪く、 今後の取り扱いに困難を伴うことから、柄の部分は2分割のままで仕上げることにしました。 |
■活用のための
接合・復元➀ |
修理前の錫杖 |
■活用のための接合・復元②
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遊環はいくつかの破片になっているとと もに、なくなっている部分もありました。そ のため、詳細観察から検討を行うことで 元々の位置と形を特定し、復元しました。
このように、安全な活用をするためには 復元や接合を行うかどうかを慎重に判断 する必要があります。 |
■活用のための
接合・復元②
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遊環の復元検討と復元
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440出土物
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遺構➀出土
土師器小甕 |
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上:鉄鐸
下:鉄製刃物
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錫杖頭
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鳥形製品 脚部 |
鳥形製品 頸部 |
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鉢
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遺構➀出土
須恵器
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坏蓋 |
無台坏 |
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遺構➀出土
須恵器 |
はそう,長頸壷,鉢
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はそう,長頸壷,鉢
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はそう,長頸壷,鉢
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高坏 |
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443横型環状瓶
大甕
大甕 |
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500中世
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中世
約900年前~約400年前
■概要:この時代に武士階級が新たに台頭し、京都の朝廷から権力を奪取しました。権力は平安時代後期から鎌倉時代、そして室町時代へと移り、室町時代後期は戦国時代へと移行しました。各地に築かれた堅固な城郭はこの時代に遡り、当時の戦の様子を物語っています。
北海道ではアイヌ文化が栄え、沖縄では各地にグスク(城郭)が築かれたため、「グスク時代」と呼ばれています。
■展示対象遺跡:神奈川県の子易・中川原遺跡では、鎌倉時代の寺院群の遺跡が発見されました。この遺跡は、池のような大きな建造物、礎石を備えた複数の建物、そして墓で構成されています。位置や配置から浄土庭園であったと考えられ、中世寺院群の全貌が明らかになった貴重な発見です。
Medieval period
c. 900 BP to c. 400 BP
■Overview: The samurai class newly emerged during this period and managed to take
power away from the imperial court in Kyoto. Power shifted from the late
Heian to the Kamakura, and then to the Muromachi period. The late Muromachi
period led into the Warring States period. Highly fortified castles in
many locations come from this period, conveying the nature of the wars
of the period. In Hokkaido, the Ainu culture flourished, and in Okinawa
gusks (castles) were built in many locations, giving the period the name
'the Gusku period'.
■Sites in exhibit: At the Koyasu Nakagawara site in Kanagawa Prefecture, the remains of a
Kamakura period temple complex were found, consisting of a large pond-like
structure, several buildings with foundation stones, and tombs. Based on
the location and layout, it is believed to have been a Pure Land garden,
and it is an important discovery of a rare example of a medieval temple
complex whose full layout has been revealed.
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501中世
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510子易・中川原遺跡
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511
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■子易・中川原遺跡
■鎌倉時代
■13世紀
■ 伊勢原市子易字大坪59-1外
霊峰を 見上げ武士 斤見
どんな遺跡かな?
子易・中川原遺跡は、 神奈川県西部、 伊勢原 市にある霊峰大山の麓、 標高108~130 メートルほどの段丘面に立地する鎌倉時代 (13世紀)
の中世寺院です。 寺院は西を背 にして5棟の建物が南北方向に直列に配置 されており、建物前面では人工的に造られ た大きな池状遺構も確認しました。 |
子易・中川原遺跡 |
どんな遺跡かな |
遺跡位置図 |
遺構全体図 |
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くわしくみてみよう
本堂と推定される桁行3間×梁行4間の礎石建物1、両側には脇堂と考えられる礎石建物 2・3があり、 左右対称の配置となっています。 本堂の前面に大きな池状遺構が確認されていることから、いわゆる浄土庭園であったと考えられます。
その他、 墳墓堂もしくは納骨堂の可能性のある礎石建物4や3基の石組墓が検出されました。 |
くわしくみてみよう
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建物配置図
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くわしくみてみよう
当地の中世寺院に関する文献史料等は確 認されていませんが、 平安時代末から鎌倉 時代初期には御家人糟屋氏の本拠地で あったとされています。 その後間もなく、13世 紀初頭に糟屋氏嫡流は没落し、鎌倉末期には大仏流北条氏の所領であったことが分かっています。 両者との関連は不明ですが、 鎌倉時代の関東における浄土庭園の受容 過程を考える上で重要な遺跡です。 |
くわしくみてみよう
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513出土物
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9-補 墳墓堂・納骨堂
礎石建物4は方形基壇上にあり、建物は3間×3間 (一辺約4) の礎石建物である。 基壇中央部には火葬骨や灰・焼土が入れら れた設置時期の異なる常滑産大甕が2個体埋設されていた。 遺骨の埋葬・納骨施設には特定個人のもの (墳墓堂)と不特定 多数のもの(納骨堂) がある。
今回は甕の上部が失われており遺骨も少量で、いずれの施設で あるかの判断は難しい。 |
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礎石建物4 (東から) |
墳墓堂 納骨堂イメージ図
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常滑産大甕出土状况 |
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9-補 石組墓
外枠の石組の内側には少し規模の小さな石を充填し、さらに内 側に玉石を積み上げている。 玉石の下から埋葬主体部とみられる 炭化物と少量の火葬骨を含んだ土坑が見つかった。 玉石の中に は、小さな自然石に仏教経典を書写した礫石経 (多字経石) が含まれます。 |
9-補 石組墓 |
石組墓 (東から) |
火葬骨

埋葬主体部とみられる土坑 (東から) |
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515
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青磁碗
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青磁酒会壺 |
陶器壷(三筋壺) |
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陶器甕 |
かわらけ
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陶器卸皿 |
陶器壺
(褐釉壺)
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陶器片口鉢 |
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600近世
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近世
約400年前~約150年前
概要:安土桃山時代から江戸時代へと移り変わりました。新しく成立した徳川幕府は各地の領地を統一し、約250年間続く平和な時代を築きました。幕府は対外的な接触を制限し、日本独自の文化を育みました。北海道ではアイヌ文化が栄え、沖縄は琉球王朝によって統一されました。
展示物:京都府にある御土居は、豊臣秀吉によって築かれた城壁です。約22.5kmにわたり、土塁と堀によって京都を洛中(らくちゅう)と洛外(らくがい)に分けました。遺跡の各地で行われた発掘調査により、御土居は地形に合わせた多様な工法を用いて短期間で築かれたことが明らかになっています。
Early Modern
c. 400 BP to c. 150 BP
Overview: The Azuchi-Momoyama period gave way to the Edo period. The new Tokugawa
shogunate unified regional fiefdoms, inaugurating a period of peace lasting
approximately 250 years. The government limited international contact,
allowing a unique Japanese culture to develop. The Ainu culture flourished
in Hokkaido, while a unified Ryukyu dynasty ruled Okinawa.
Sites in exhibit: The Odoi in Kyoto Prefecture is a city wall constructed by Toyotomi Hideyoshi. It divided Kyoto into the inner city (Rakuchu) and the outer city (Rakugai) with earthen embankments and a surrounding moat, extending approximately 22.5 km. Excavations at various locations along the site have revealed that the Odoi was built in a short period of time using varied techniques adapted to the local terrain. |
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601
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610御土居跡
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611
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■御土居跡
■安土桃山時代~江戸時代
■1591年~19世紀前半
■京都府京都市北区・上京区・中京区
何者だ!? のっぺらぼうの
どんな遺跡かな?
御土居は、天正19(1591) 年に豊臣秀吉が築いた都市 城壁です。 土塁とその外側に 掘られた堀で京都の内 (洛中)と外 (洛外) を区画したも 安土桃山時代の京都の町と御土居 ので、南北8.5キロ、 東西3.4キロ、総延長22.5キ ロに及びます。 近年の発掘調査により、旧来の地形 を巧みに利用し、様々な工夫を加えながら構築され たことが分かりました。 |
御土居 |
どんな遺跡かな |
安土桃山時代の京都の町と御土居
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大宮御土居
(北西から) |
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くわしくみてみよう
御土居の北西側、 北野天満宮境内に現存する御土居では、内から外の紙屋川に排水するための石組暗渠が見つかりました (地点2)。
御土居の南西側、 JR丹波口駅付近で実施した調査では、堀の底に城郭の障子堀に類似した畝状高まりを設けていたことがわかりました(地点4)。
地点4の南 側には京都の出入口のひとつである丹波口が あり、防御を意識した施設の可能性があります。 |
くわしくみてみよう |
地点2断面図 |
地点2石組暗渠(西から) |
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くわしくみてみよう
御土居の堀からは、多様な遺物が良好な 状態で出土しています。 人形をはじめとした 多量の木製品は、御土居の堀が水堀だった おかげで腐朽を免れました。
畝状の高まり
地点4で出土した極印鑽は、慶長丁銀に極 印 (品質保証のための刻印)を打つための ものです。 通常、 廃棄する際は印面を潰すの が原則ですが、 この極印鑽は潰されていま せん。 鋳造場所である銀座からも離れており、 なぜ御 土居の堀から出土したのか、果たして偽造されたもの
なのか多くの謎が残されています。 |
くわしくみてみよう |
地点4調査区全景(北から) |
畝状の高まり
地点4平面図
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| 613極印鑽
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614
木製人形(頭部) |
木製人形
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墨書木簡
荷札木簡
木製糸巻
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木製下駄 |
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木製箆,木製平筆柄 |
木製灯台受皿
木製刷毛 |
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木製ミニチュア椀 |
漆器椀,漆器椀蓋
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漆器皿
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1000我が町が誇る遺跡
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1001年表
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| 1002
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1003
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1010
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ごあいさつ
文化庁長官 都倉俊一
我が国には四十七万カ所以上の遺跡が知られており、まさに遺跡の宝庫といえま す。これらは単なる過去の遺産ではありません。 それぞれの土地の気候や風土に適 応して地域独自の生活を営み、世代を繋いできた私たちの先祖の文化的なDNAと いうべきものであり、私たちが未来を切り開いていく礎といえるでしょう。
こうした遺跡をまもるため、毎年およそ八千件の発掘調査が行われ、数多くの成 果が日々蓄積されています。文化庁では、そうした発掘調査のうち全国的に注目さ
れた成果を、多くの方々にご覧いただくことを目的に、平成七年度から「発掘され た日本列島」展を開催しております。今年度も中核展示として、『我がまちが誇る
遺跡』 と 『新発見考古速報』を行います。
『我がまちが誇る遺跡』は、継続的な発掘調査の成果に基づく地域研究によって 明らかになった「地域の特性や魅力」に目を向け、発信するものです。今回は、長
崎県佐世保市、滋賀県、群馬県・同県前橋市・高崎市による三つの企画を取り上
『新発見考古速報』では、縄文時代から近世まで、近年広く注目を集めた一〇遺 跡を取り上げ、速報展示を行います。
特集展示『遺跡から読み解く多様な歴史文化』 では、さまざまな視点から遺跡や 遺物を見ることにより浮かび上がる、個性豊かな日本の歴史文化をパネルにて紹介 します。今回は、『埴輪列の世界』と題して、古墳に立て並べられた埴輪の配列の 通時的な変化や時期的・地域的な特徴について、代表的な一三の古墳を取り上げて 展示します。
今年度、本展覧会では四四遺跡、約四八〇点の出土品等を、佐世保市博物館島瀬 美術センター、京都府立山城郷土資料館、三重県総合博物館、郡山市歴史情報博物
館の四館で巡回展示します。
三重県総合
多くの方々が本展覧会をご覧になり、さまざまな発掘調査の成果を間近にするこ とで、我が国の歴史や文化の価値と多様性を感じ取り、発掘調査の意義と埋蔵文化 財の保護へのご理解を一層深めていただければ幸いです。
最後になりましたが、本展覧会の開催に当たり、ご協力を賜りました関係各位に 深く御礼を申し上げます。
令和七年七月
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日本列島発掘調査展2025
日本列島では、年間約8,000カ所の遺跡が発掘されています。埋蔵文化財は、それぞれの地域特有の歴史や文化を雄弁に物語っています。一般公開できるのは、発掘された遺跡のほんの一部に過ぎませんが、全国各地の特に注目すべき発掘調査の成果を、より多くの方々にタイムリーかつ身近にご覧いただけるよう、文化庁は1995年から毎年「日本列島発掘調査展」を開催しています。今年度で31回目を迎えます。
今年度は3つの企画展を開催します。
まずは「遺跡は、わが町の誇り」と題した企画展です。南北に細長い日本列島には、古代から豊かな地域文化が息づき、その一部は現代にも受け継がれています。本展では、各地域における継続的な調査研究の成果を集約し、個性豊かな遺跡を通して「地域の歴史の魅力」を分かりやすく紹介します。
今回は、特別史跡「福井鍾乳洞」をはじめとする国内有数の洞窟遺跡集積地を有する長崎県佐世保市、縄文時代から近代にかけて、集落や貝塚、祭祀遺跡、交通、城郭など、多様な水中遺跡が発見されている日本最大の湖・滋賀県琵琶湖、そして古墳時代には1万3000基を超える古墳が築造され、古代東洋文化の中心地として栄えた群馬県の3つのプロジェクトに焦点を当てます。
第二展では、縄文時代から近世にかけて、全国各地から発掘された10の遺跡を紹介します。最新の発見をお楽しみください。
3つ目は特別展「遺跡から読み解く多様な歴史文化」です。遺跡や出土品を多角的に捉えることで、日本独自の歴史文化を深く掘り下げます。今年のテーマは「埴輪の再現世界」。埴輪の配置や配置の変遷を通時的に辿り、地域性や現在実際に訪れることができる13基の古墳の魅力を浮き彫りにします。
Exhibition of Excavations in the Japanese Archipelago 2025
Approximately 8,000 archaeological sites are excavated annually across the Japanese archipelago. Buried cultural properties tell an eloquent story of the history and culture unique to each area. While the public can only interact with a fraction of the many excavated sites, to allow as many people as possible to view the results of particularly notable excavations from around the country in a timely and accessible way, the Agency for Cultural Affairs has held the "Exhibition of Excavations in the Japanese Archipelago" each year since 1995, This year marks the 31st exhibition.
Three exhibits are planned for this fiscal year.
The first is an exhibit entitled "Archaeological Sites, the Pride of Our Town". The Japanese archipelago, long and narrow from north to south, has long been home to a rich variety of local cultures since ancient times, and some of them have been handed down to the present day. This exhibit compiles findings from ongoing research into each region and introduces the "appeal of the history of the region" through unique archaeological sites in an easy-to-understand format.
This time, we will be focusing on three projects: Sasebo City in Nagasaki Prefecture, home to one of the largest concentrations of cave sites in Japan, including the Special Historic Site Fukui Cave; Lake Biwa in Shiga Prefecture, Japan's largest lake, where a wide variety of underwater archaeological sites have been discovered, ranging from settlements and shell mounds, ritual sites, transportation, and castles, from the Jomon period through to modern times; and Gunma Prefecture, where over 13,000 ancient tombs were constructed during the Kofun period, marking the area as a center of eastern culture during ancient times.
The second exhibit introduces 10 excavated sites from around the country, spanning from the Jomon to Early Modern periods. We invite you to enjoy these recent discoveries.
The third is a special exhibition entitled "Diverse Historical Cultures Revealed from Sites". By viewing sites and artifacts from multiple perspectives, the exhibition delves into the unique historical culture of Japan. This year's theme, "The World of Haniwa Retracement", looks at diachronic changes in the placement and arrangement of haniwa figures, highlighting regional characteristics and the appeal of 13 ancient tombs that can actually be visited today.
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我がまちが誇る遺跡
発掘調査にとって大切なことは、新たな遺跡や遺 物の「新発見」だけではありません。むしろ、たくさ んの発掘調査の成果を積み上げ、それを分析する ことで明らかになる 「発見」のほうが、実は多くある のです。
「我がまちが誇る遺跡」では、そうした継続的な発 掘調査の成果に基づく地域研究によって明らかに なった「地域の個性的な歴史」 や 「魅力的な遺跡」
を、全国の地方公共団体の企画提案により紹介し ます。
今回は、全国屈指の洞窟遺跡密集地帯として知ら れる長崎県佐世保市 琵琶湖に多数の水中遺跡 が所在する滋賀県、 古墳時代から古代にかけての重要な遺跡が多数所在する東国文化の中心地、
東国千年の都ともいえる群馬県前橋市・高崎市 (群馬県前橋市・高崎市による共同企画)の三つ の企画を取り上げました。
南北に細長く起伏に富んだ日本列島には、古くか ら多様な地域文化が花開き、 その一部は現在にも 継承されています。 このような個性豊かな地域文化 に目を向けることは、日本の歴史や文化の魅力・面 白さを 「再発見」することにもつながるでしょう。そし て本企画が少しでも「地域を元気にする」ことにつながればと考えています。 |
我がまちが誇る遺跡 |
我がまちが誇る遺跡 |
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1100A 洞窟王国佐世保
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1101
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洞窟王国 佐世保 ◇展示コンセプト◇
実は、佐世保市は日本随一の「洞窟遺跡 (洞穴遺跡) の町」としても知られています。 洞窟が多い理由は、 佐世保市の地質と地形が関係します。 本地域の地質は、基盤層である第三紀層堆積岩が河川の浸食や風化作用により削られることで、崖状になった地形が谷間や河川沿いに見られるのが特徴です。 こうした自然地形の利用は旧石器時代にはじまり、近現代にまで至ります。洞窟遺跡を通してまちの歴史を語ることができる希少な地域です。
今回は、国内最古の特別史跡に指定された福井洞窟から洞窟遺跡の特性を探り、順次市内各地の主要な洞窟遺跡に着目しながら、本市の歴史を紹介します。
それでは、佐世保市の新たな魅力である「洞窟王国」を巡る航海を始めましょう。 |
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佐世保市 ◇まちの紹介◇
日本列島の西の端長崎県北部に位置する佐世保市は、三方を海に囲まれ、 西海国立公園 「九十九島」 に代表される、 多島海の豊かな自然に恵まれた都市です。
本地域は砂岩を基盤とし、河川の浸食や風化作用によって削られることで、洞窟や岩陰地形が谷間や河川沿いにみられます。
先史時代からこうした自然地形を利用しており、全国有数の洞窟遺跡集中域となっています。 かつては、 海軍の軍港として栄えた歴史をもち、 現在は米海軍基地がある国際色豊かな港街でもあります。 |
佐世保市
◇まちの紹介◇
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特別史跡 福井洞窟周辺の地形
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黒曜石原産地 (松浦市牟田)
福井洞窟
上直谷岩陰
直谷岩陰
不動明王谷岩陰 |
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1. 洞窟遺跡の金字塔―特別史跡 福井洞窟―
令和6年10月、本市洞窟遺跡の中核である福井洞窟 が旧石器時代の遺跡として国内で初めて特別史跡に 指定されました。
福井洞窟は、 長崎県北部の北松浦半島にある福井川の浸食によって標高110粒に形成され た砂岩洞窟です。
昭和30年代に行われた最初の発掘調査から半世紀後に行った再発掘調査で、主に後期旧石器時代終末期から縄文時代早期 (約19000年前~1万年前)の狩猟キャンプの跡を幾層にも確認しました。
これにより旧石器時代の石器の変遷とともに、初めて土器が出現する過程や、人々の生活の様子が明らかとなりました。 |
1. 洞窟遺跡の金字塔 特別史跡 福井洞窟
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再発掘調査の様子
再発掘調査時のトレンチ(調査坑) |
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2. はじまりの洞窟―旧石器時代の洞窟遺跡と開地遺跡―
佐世保市域の洞窟遺跡の利用は、 後期旧石器時代までさかのぼります。 約3万年前のナイフ形石器文化期には、菰田洞穴、直谷岩陰、岩下洞穴など5カ所の洞窟遺跡が確認されています。 石器製作は行われず、 狩猟活動の合間に立ち寄る程度の利用だったことが考えられます。
一方で、 遠望の利く高所の台地上に板山遺跡などの開地遺跡があり、 ナイフ形石器や台形石器などの狩猟具を生産し、狩猟活 動を活発に行っていました。 |
2. はじまりの洞窟 |
旧石器時代の洞窟遺跡
菰田洞穴近景
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3. 縄文時代のはじまりと洞窟遺跡 |
泉福寺洞窟 |
縄文時代草創期の洞窟遺跡
史跡 泉福寺洞窟 発掘調査の様子 |
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4. 山の洞穴―縄文時代の洞窟遺跡―
佐世保市の中央を流れる相浦川流域には多くの先史時代の遺跡が点在しています。
泉福寺洞窟の対岸で、 標高300mの山中にある岩下洞穴では、縄文時代早期と前期の人骨約30体が確認され、墓域としての洞窟の利用が明らかとなりました。
埋葬された人骨には磨製石槍を副葬している例もあります。 |
4. 山の洞穴 |
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長崎県指定史跡岩下洞穴
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岩下洞穴人骨出土状況
№12,№13,№14号人骨
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5. 海の岩陰―縄文時代の洞窟遺跡―
相浦川下流の下本山岩陰遺跡は、縄文時代 前期から弥生時代の墓域と生活域です。
縄文時代前期のイノシシ等の哺乳類、鳥類、魚骨などの骨角器類 (釣針等の漁労具や貝輪、ペンダント等の装飾品) が出土し注目されます。
縄文海進以後には、リアス式海岸の周辺でクジラ漁に用いられたと考えられる石銛も多く見つかっていて、 特に下本山岩陰遺跡の石銛は長大で迫力があります。※石銛の写真・解説は見つかりませんでした。 |
5. 海の岩陰 |
長崎県指定史跡下本山岩陰近景
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6. 非日常の世界と洞窟遺跡―弥生時代以降の洞窟―
下本山岩陰遺跡では、 弥生時代の埋葬人骨が2体、箱式石棺墓で発見され、弥生時代の墓域としての岩陰利用が明らかとなりました。
弥生時代以降、西北九州の洞窟遺跡は墓域や祭祀場としての利用が高まります。
縄文時代においても、埋納された石斧 (直谷岩陰)や足形土製品 (天神洞穴) にその兆候を垣間みることができ、
古墳時代の岩谷口第2岩陰の内行花文鏡の破鏡は祭祀の痕跡として象徴的です。 |
6. 非日常の世界と洞窟遺跡
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下本山岩陰
弥生時代 箱式石棺墓の人骨出土状況 |
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7. 古代から近世の洞窟遺跡
古代・中世には、海蝕洞窟の利用が多くみられ、生活の仮の宿や漁労活動の作業場として利用され、日常的な生活の場所とはなっていなかったようです。
江戸時代になると平戸藩領に編成された本地域は、戦国時代の領主である平戸松浦氏が大名として統治します。 その第十代藩主松浦熈は、 長崎勤番の際に往来し た平戸往還の周辺に点在する8ヶ所の洞窟地形や奇岩地形から生まれる風景地を選び、 弘化4年(1847) に
『平戸領地方八竒勝』と名付けます。 これらは、近代以降に「平戸八景」(国指定名勝)として広く知れわたる ようになりました。 |
7. 古代から近世の洞窟遺跡
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龍神洞穴(名勝 平戸八景(福石山)) |
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8.近現代の洞窟遺跡
明治22年(1889) 佐世保に鎮守府が設置されると、一挙に村から市となりました。
近代化により軍事施設が拡大する一方で、戦火から逃れるための「防空壕」(人工洞窟)が各地につくられました。
現在のハウステンボス付近には、昭和18年(1943)から20年8月15日の終戦の日まで掘り続けられた防空壕「無窮洞」があります。
掘ったのは、当時の中学生や小学生です。教壇や書類室のほか、台所や便所、避難洞も作られ、戦時中においても教育への無限の可能性を求めた人々の思いをしのぶことができます。 |
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1110福井洞窟
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1111
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A-補 佐世保市の洞窟遺跡の変遷
佐世保市では、旧石器時代から現代にいたるまで継続的に洞窟が 利用されており、 その利用形態は、一時的な立ち寄りの場、 石器製作の場、墓域など、時代によってさまざまです。 |
福井洞窟遺物
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両面加工石器
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尖頭器
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隆起線文土器 |
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土製有孔円盤
石製有孔円盤
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石製有孔円盤
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石製有孔円盤
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土製有孔円盤
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1113細石刃期 1万9or8000年前~1万6or4000年前
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細石刃利用方法
組み合わせ道具 |
植刃器槍先参考資料 |
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A-補 植刃器のつくり方
石器を組み合わせてより大きな道具を作った
細石刃文化は、九州では約19,000 年前にはじまる。 細石刃を保有 する集団は日本海を回るようにして東アジアから日本列島一円に広く分布する。
細石刃とはカミソリの刃のような形をした幅5~8mmほどの小さな石器である。 シベリアでは、トナカイなどの骨で作った槍先の刃として使われた。刃が欠けると付け替えがきく。刃を増やすこと
でほかの石器よりも大きな狩猟具ができる。
鹿の角を素材とした槍先などに石の刃を埋め込んだ道具を「植刃器」と呼ぶ。
シベリアの遺跡では、この植刃器が野牛の肩甲骨にささった状態で出土している。
細石刃を埋め込んだ槍は、突き槍や手投げの槍などの狩猟の道具として利用していたと考えられる。 |
A-補 植刃器のつくり方
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細石刃核→細石刃→
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→植刃器
細石刃
動物の骨や角
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細石刃を埋め込んだ槍は、突き槍や手投げの槍として 利用していたと考えられる。 |
土器の出現 1万6~4000年前 第3層~第2層
福井洞窟の地層
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1層 |
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縄文土器(爪形文)・細石刃 |
2層 |
| 土器の出現 |
1万6~4000年前 |
縄文土器(隆起線文)・有孔円盤・細石刃 |
3層 |
| 細石刃中心の石器群 |
1万6200年前 |
細石刃のみ |
4層 |
| 1万7000年前 |
小石刃・炉 |
7~9層 |
| 洞窟天井の落石 |
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10層
11層 |
| 1万7500年前 |
細石刃・炉 |
12層 |
| 1万9~8000年前 |
細石刃・炉 |
13層 |
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両面加工石器 |
14~15層 |
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16層 |
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岩盤 |
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| 1130菰田洞穴・板山遺跡
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1141泉福寺洞窟
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泉福寺洞窟 |
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隆起線文土器 |
豆粒文土器 |
石鏃,細石刃核 |
細石刃 |
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豆粒文土器 |
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1143直谷岩陰
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爪形文土器
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細石刃核
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彫器 |
掻器
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石斧
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叩き石 |
石鏃
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1150岩下・下本山岩陰
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岩下洞穴
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磨製尖頭器
(19号人骨副葬品) |
下本山岩陰 |
石銛
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骨製簪,貝製ペンダント |
鹿角製組合せ式釣針具
貝製抉状耳飾
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1160その他の遺跡
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直谷岩陰
磨製石斧
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天神洞穴 |
足形土製品 |
岩谷口第2岩陰 |
内行花文鏡 |
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1200B 琵琶湖の水中遺跡
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1201
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琵琶湖の水中遺跡 ◇展示コンセプト◇
大正13(1924)年、葛籠尾崎付近の琵琶湖底より複数の土器が引き揚げられ、湖底に遺跡が沈んでいることが初めて明らかになりました。 葛籠尾崎湖底遺跡の発見です。その後、現在まで旧石器時代から近代までの集落・貝塚・祭祀・港湾・城館など多種多様な78か所の遺跡が発見されています。
近江国(滋賀県)は、京の都に隣接する立地から古代官道(北陸道・東山道)や近世街道(東海道・中山道)が走る陸路の要衝でした。 同時に、琵琶湖は天然の運河として湖上交通の要衝でもあり、多くの物資輸
送に利用されました。 また、織田信長が明智光秀に水運の拠点である琵琶湖畔の坂本の地に坂本城を築かせたように、政治・軍事・経済の面でも琵琶湖は重要な場所であり、琵琶湖とその水中に眠る遺跡は日本の歴史を語る上で不可欠なものです。
一方、なぜ湖底に遺跡があるのか、その形成過程には不明な点が多く、こうした謎も琵琶湖の水中遺跡の魅力の一つです。
今回の展示では、これまでの調査研究で明らかになった琵琶湖の水中遺跡について紹介します。 |
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滋賀県と琵琶湖 ◇まちの紹介◇
琵琶湖を有する滋賀県は、 日本列島のほぼ 中央に位置し、福井県、岐阜県、三重県、京都府と接しています。 県域は、 周囲を伊吹、鈴鹿、 比良などの山系に囲まれた近江盆地と、その
中央にある琵琶湖で形成されています。
琵琶湖は、 約60種類以上の固有種が生息する貴重な自然環境であるとともに、大小450本の河川が流れ込み、 275億㎥もの水を蓄えています。 この豊富な水は瀬田川と琵琶湖疎水から流出し、近畿圏
1450万人の 生活や産業に欠かすことのできないものとなってい ます。 |
滋賀県と琵琶湖 |
滋賀県と琵琶湖
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安曇川
比良山地
琵琶湖
北湖
多景島
伊吹山地
鈴鹿山脈
岐阜県
近江盆地
南湖
琵琶湖疏水
瀬田川洗堰瀬田川 |
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1210
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1. 水中遺跡研究の歴史と特性
➀旧石器時代以来続く多様な時代の遺跡
琵琶湖には、原始以来の多種多様な遺跡が連綿と数多く存在します。
琵琶湖最古の水中遺跡は、 旧石器時代の石器が出土した螢谷遺跡です。
次に縄文時代のクリ塚や貝塚が確認された粟津湖底遺跡、
弥生時代の集落や水田が検出された針江浜遺跡、玉作り工房が見つかった集落である烏丸崎遺跡 など、
その後も琵琶湖の周囲に暮らす人々が湖と関わりながら 生きてきた証として、途絶えることなく遺跡が形成されています。 |
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1. 水中遺跡研究の歴史と特性
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螢谷遺跡(大津市)
ナイフ形石器
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粟津湖底遺跡
(大津市)調査の様子 |
針江浜遺跡 (高島市) 弥生時代前期の集落
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烏丸崎遺跡 (草津市)
弥生時代中期の玉作工房の竪穴建物
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2. 水中遺跡の調査事例
➀縄文人の貝塚 粟津湖底遺跡
粟津湖底遺跡は、縄文時代前期から中期頃の貝塚です。 平成2年に琵琶湖総合開発に伴う航路確保の浚渫工事に先立ち、 発掘調査が行われました。
調査範囲が8900平方と広大だったため、矢板で遮水し内側を排水して陸上同様の環境で実施しました。
長く水中にあったことから、 後世の改変を受けることなく良好な状態で貝塚やクリ塚が発見されました。 土のう袋2万3千袋分の土壌を回収し分析することで 縄文時代の食性や古環境が明らかとなりました。 |
水中遺跡の調査事例 |
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陸化した粟津湖底遺跡 第3貝塚調査状況
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小貝層
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植物遺体 (ドングリ)層
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1220
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B-補 水中遺跡とは
「海域や湖沼等において、 常時もしくは満潮時に水面下にある遺跡」と定義している。
水中遺跡の立地は多様であり、 それに応じた 発掘調査の実施が求められる。 潜水による調査 の他、 湖岸から近く水深の浅い場所では、鋼鉄 製の矢板で調査地を囲い、 常時排水することに よって、 陸上の遺跡と同じ方法で調査すること ができる。 琵琶湖ではいずれの調査も実施して いる。 |
粟津湖底遺跡
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1225縄文土器
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B補 粟津湖底遺跡での食料の割合と生業カレンダー
貝塚の貝層を分析した結果、 縄文時代中期の食 料は、ドングリなどの植物が5割、 イノシシや シカなどの動物が1割、 フナやコイなどの魚類 とシジミなどの貝類が各2割ほどを占めていた ことが判明した。 貝の死亡時期の分析から、 春 夏は魚やシジミ採り、秋はドングリ拾い、冬は イノシシやシカの狩猟を行っていたことも明ら かになった。 |
B補 粟津湖底遺跡での食料の割合と生業カレンダー
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食糧グラフ
イノシシ 8.6%
シカ 2.2%
フナ 7.2%
コイ 4.7%
ナマズ 6.6%
ギギ 1.5%
シジミ 16.7%
イチイガシ 5.4%
トチノキ 38.9%
ヒシ 8.2% |
生業カレンダー
春:魚捕り
夏:シジミ採り
秋:木の実拾い
冬:狩り |
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1230
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1240
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1. 水中遺跡研究の歴史と特性
③湖の地形変化・多様な環境情報を提供
水中遺跡には琵琶湖の地形や自然環境の変化を知る手が かりが詰まっています。
水中遺跡ができた理由の一つとして、 本来は陸地にあった 集落や遺跡が水位の変化や地震などの地殻変動によって 水没したケースがあります。
発掘調査では縄文時代から平 安時代までの噴砂などの地震痕跡が見つかっています。 こ れらの遺跡から過去に起きた地震の規模や周期を読み取り、琵琶湖の水位変化や地殻変動の変遷を知ることができ、 防災や減災にも役立てることができます。 |
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③湖の地形変化・多様な環境情報を提供
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針江浜遺跡
写真左が琵琶湖側で、 右が陸側。
すべて陸側に倒れていることから、琵琶湖から津波 (大波)が押し寄せ、倒されたと考えられている。 |
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針江浜遺跡 |
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針江浜遺跡
写真左が琵琶 すべて陸側に倒 波) が押し寄せ、筋状に白く広がる部分が地震に伴う液状化現象により地中の水分と一緒に吹き上がった砂 (噴砂) |
針江浜遺跡の噴砂 |
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B補 琵琶湖の水中遺跡の種類と数
琵琶湖の水中遺跡の種類は10種以上を数え、 またその数は78カ所にものぼり、 水中遺跡では 沖縄県に次ぐ全国第2位の多さである。 |
葛籠尾崎湖底遺跡 |
針江浜遺跡 |
多景島遺跡 |
長命寺湖底遺跡 |
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浮御堂遺跡 |
粟津湖底遺跡 |
赤野井湾湖底遺跡 |
烏丸崎遺跡の竪穴建物 |
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1250
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1. 水中遺跡研究の歴史と特性
④遺跡・遺物の保存状態が良好
水中遺跡は陸上の遺跡に比べて保存状態が 極めて良好です。
人の手が及びにくいため、 開発などによる破 壊を受けることなく、水位上昇あるいは地盤沈 下によって水没した集落遺跡をはじめ、橋の橋 脚や港の護岸といった水中や水際に構築され た遺構が当時のままの姿で残っていることが 多くあります。 また、水中に投棄あるいは沈んだ 土器や瓦が壊れずに残っている例も多く、 完全 な形で見つかることも少なくありません。 |
④遺跡・遺物の保存状態が良好
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長命寺湖底遺跡
縄文時代の丸木舟が見つかった様子。 |
出土した丸木舟(6m)と櫂
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1260
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2. 水中遺跡の調査事例
②水中考古学の先駆け 葛籠尾崎湖底遺跡
葛籠尾崎湖底遺跡は、 縄文時代早期 (約1万年 前) から近世にかけての土器や石器が連綿と出 土する遺跡です。
昭和34年に琵琶湖総合調査が実施され、 音響探査によって湖底の詳細な地形や深度が判明しました。
葛籠尾崎と竹生島間 の湖底に深さ68mから75mのV字谷が存在し、 土器はこの谷に分布することが分かりました。
遺跡の成因については、 「集落の水没」 「船の積荷の沈没」、「祭祀のための土器投下」など諸説あります。 |
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②水中考古学の先駆け 葛籠尾崎湖底遺跡 |
湖底に沈んだ須恵器 |
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B-補 葛籠尾崎遺跡の湖底地形と遺物分布
琵琶湖北端に突き出た岬に位置し、 すぐ沖から 急激に水深が深くなる。 遺跡は葛籠尾崎の先端 から東沖約10~700、 湖岸に沿って北へ数キロ
にわたって広がる。 下図の○は縄文時代から古 代の土器は6世紀以降の土器類が確認された。 時代によって分布範囲が異なり、二つの地点で は遺跡の成因が異なることが予想される。 |
葛籠尾崎遺跡の湖底地形と遺物分布
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○大正~昭和に引き上げられ た土器の位置
●平成22年以降に立命館大学の矢野健一教授らが水中探査ロボットなどで確認した土器の位置 |
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1300C 東国千年の都
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1301
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東国千年の都~古墳から古代へ~ ◇展示コンセプト◇
古墳時代には上毛野国と呼ばれた群馬県は、大小あわ せて1万3千基を超える古墳が築かれた 「古墳王国」です。 副葬品・埴輪など出土品にも目を見張るものが多く、この 地の繁栄の姿を今に伝えます。
上野国と呼ばれた古代にもこの隆盛は引き継がれます。
上野国は律令制において最も上位の大国に区分され、親王が国の長官である太守に任命される親王任国でした。
この頃の群馬県内の遺跡は、古墳時代から古代へと移 り変わったダイナミックな流れと文化を生み出した人々のパ ワーを感じさせてくれます。 前橋市・高崎市には重要な遺跡
が多数あり、東国千年の都と言っても良いでしょう。 ここでは、前橋市・高崎市にまたがる榛名山東南麓と、高崎市南部周辺の2カ所をクローズアップし、壮大な歴史ストーリーを物語る遺跡たちを紹介していきます。 |
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1310男子埴輪 保渡田Ⅶ遺跡
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1320埴輪 |
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群馬県の中心地~前橋市・高崎市~ ◇まちの紹介◇
群馬県は関東平野の北西寄りに位置し、 関東 を潤す利根川の源に当たります。 前橋市と高 崎市は、群馬県の中央を南流する利根川の東 西に隣り合って位置します。
前橋市は県都・行政の妻として知られ、 高崎 市は商都・交通の要となっています。歴史的に も重要な地域であり、 前橋市には9つの史跡、 高崎市には3つの特別史跡と12の史跡があ ります。 |
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群馬県の中心地
~前橋市・高崎市~
◇まちの紹介◇ |
群馬県庁から見た名山南麓の遺跡
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1. 榛名山麓の開発王
榛名山東南麓で一大勢力を誇ったのが史跡保渡田古墳群を築いた豪族たちでした。
5世紀後半から6世紀初頭まで、井出二子山古墳→保渡田八幡塚古墳→保渡田薬師塚古墳の順に、墳長100級の前方後円墳が続けて築かれました。
井出二子山古墳の副葬品は、 武器・ 武具・馬具・玉類など多彩であり、朝鮮半島から搬入されたものも含まれていました。 |
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南西上空から見た保渡田古墳群
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保渡田薬師塚古墳
保渡田八幡塚古墳
井出二子山古墳 |
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2. 三ツ寺遺跡と保渡田古墳群の首長
保渡田古墳群の首長たちの居館とされる三ツ 寺 I遺跡は、 周囲に石積みを施し濠に囲まれ た壮大な規模でした。 祭祀のための導水施設 や堤防を備えた濠など水に関する施設が複数 見つかっており、稲作に不可欠な水を掌握し 耕地開発を行った開発王を想起させます。 保渡田古墳群の多種多様な埴輪には、こう
いった首長の政治経済 活動が反映されている と考えられています。 |
2. 三ツ寺遺跡と保渡田古墳群の首長
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三ツ寺遺跡居館西側
(南西から)
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三ツ寺遺跡 推定復元模型(西から)
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中央柵列
祭祀の場
水道橋
井戸
大型掘立柱建物
濠 |
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1323保渡田八幡塚古墳
井出二子山古墳
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1331
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2. 三ツ寺遺跡と保渡田古墳群の首長
保渡田古墳群の首長たちの居館とされる三ツ 寺 I遺跡は、 周囲に石積みを施し濠に囲まれ た壮大な規模でした。 祭祀のための導水施設 や堤防を備えた濠など水に関する施設が複数 見つかっており、稲作に不可欠な水を掌握し 耕地開発を行った開発王を想起させます。 保渡田古墳群の多種多様な埴輪には、こう いった首長の政治経済 活動が反映されている と考えられています。 |
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2. 三ツ寺遺跡と保渡田古墳群の首長
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三ツ寺遺跡居館西側
(南西から) |
三ツ寺遺跡 推定復元模型(西から) |
倉庫群
水道橋
井戸
中央柵列
祭祀の場
・大型掘立柱建物
濠
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3. 前方後円墳の終焉- 史跡総社古墳群
列島内では7世紀初頭までに前方後円墳の築造が終了しますが、 総社古墳群ではその前後の首長墓の推移が分かります。
6世紀までは 上毛野地域に複数ある有力な首長墓群の一つでしたが、前方後円墳終焉後、当地で唯一の首長墓群となります。
愛宕山、 宝塔山、 蛇穴山の大型方墳は、地域再編により首長権が総 社古墳群に集約したことを示しており、これを 国造制導入と関連させて捉える説もあります。 |
3. 前方後円墳の終焉
-史跡総社古墳群-
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450年 遠見山古墳 墳長87.5m
500年 王山古墳 墳長75.6m
550年 二子山古墳 墳長約90m
600年 愛宕山古墳 一辺57m
650年 宝塔山古墳一边60m 山王廃寺 蛇穴山古墳一辺40m
700年 |
総社古墳群 群馬県
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王山古墳石室の義道 (通路)
東日本でも最古段階の横穴式石室。
石室は全長16.4 だが、玄室 (遺体 を埋葬する部屋) 幅1.6、羨道幅1 と狭く、細長い形状をしている。6世 紀初頭。 |
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愛宕山古墳 家形石棺
横穴式石室には自然石の巨石を用
いており、内部には凝灰岩製の刳抜式家形石棺が置かれる。 |
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宝塔山古墳 横穴式石室
輝石安山岩と角閃石安山岩の切石を用いた複室構造。
玄室には輝石 安山岩製の刳抜式家形石棺が置かれ、底部には仏教的デザインである格狭間が施されている。 |
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C-補 史跡北谷遺跡
三ツ寺 I遺跡の北東約3キロに所在する北谷遺跡 (6世紀初頭)も、一辺約90の方形で濠に囲まれ ており、二つの豪族居館はほぼ同形同規模であり、
同じ設計理念で築造されたと考えられている。 |
C-補 史跡北谷遺跡 |
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北谷遺跡全体図
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北谷遺跡 張り出し部 出土状況(南西から) |
北谷遺跡 張り出し部 出土状況(南西から)
三ッ寺I遺跡の石積みが川原
石を使用しているのに対し、北谷遺跡では角ばった山石が使 われている。 |
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1333遠見山古墳
土師器
遠見山古墳
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高坏(三ツ寺型) |
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高坏
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高坏 |
椀・壷
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壺
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4.寺院の成立史跡山王廃寺
前方後円墳の築造が停止したのち、地方でも 寺院建立が始まります。 山王廃寺は上毛野地域で最初となる寺院で、7世紀第3四半期には 初期の寺院が建っていたと推定されます。
これは宝塔山古墳・蛇穴山古墳が築造された時期 と重なっており、近接する位置関係からも古墳と寺院の造営主体が同一集団であったと考えられています。 |
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山王廃寺石製鴟尾
形が異なり、二つの建物に取り付けられたと 推定される。石製鴟尾は、 他に鳥取県伯耆 町大寺廃寺が知られる。 |
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山王廃寺塔心礎
柱を受ける穴の中央に仏舎利を納めた舎利 孔が作られている。 現在も原位置にとどまっ ている。 |
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1343山王廃寺
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山王廃寺 |
三重弧文軒平瓦 放光寺銘瓦
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素弁八弁蓮華文軒丸瓦
複弁七弁蓮華文軒丸瓦 |
素弁八弁蓮華文軒丸瓦
複弁七弁蓮華文軒丸瓦
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保渡田八幡塚古墳
ガラス小玉 |
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| 1350 |
1351
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5. 国府と国の華 「国分寺」
律令制の導入が進むとともに全国に国府が設 置され、上野国府は総社古墳群南方の前橋市 元総社町周辺にあったと推定されています。
741年に聖武天皇は全国に “国の華”である国 分寺と国分尼寺を建立するよう命令しました。 史跡上野国分寺跡・史跡上野国分尼寺跡からは、上野国内の郡や個人が納めた文字瓦が出土し、 国分二寺が上野国の総力を結集して建て られたことを物語ります。 |
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5. 国府と国の華
「国分寺」
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上野国分寺・上野国分尼寺推定復元図 |
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1353
元総社寺田遺跡
墨書土器
「國厨」,「□曹字司
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元総社蒼海遺跡群
墨書土器
大館
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須恵器
小型短頸壷
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大型高坏 |
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壺
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壺 |
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1360
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C-補 山上碑の現代語訳
佐野三家をお定めになった健守命の子孫の 黒売刀自。
これが、 新川臣の子の斯多々弥 足尼の子孫である大児臣に嫁いで生まれた子である長利僧が、 母の為に記し定めた文である。 放光寺の僧。 |
山上碑 |
山上飛の現代語訳 |
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碑文 引用Wikipedia
辛己歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒賣刀自此
新川臣兒斯多々彌足尼孫大兒臣娶生兒
長利僧母爲記定文也 放光寺僧
読み下し
辛巳歳集月三日に記す。佐野三家を定め賜える健守命の孫の黒売刀自、此れ新川臣の児、斯多々弥足尼の孫の大児臣に娶ぎて生める児の長利僧が、母の為に記し定むる文也。放光寺僧 |
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C-補 多胡碑の現代語訳
朝廷の弁官局から命令があった。 上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。 郡の名は多胡郡としなさい。 和銅四 (七一一)年三月九日甲寅に命令が伝えられた。 左中弁正五位下多治比真人 (三宅麻 呂)。
太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂) 尊、 右太臣正二位藤原不比等) 尊。 |
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C-補 金井沢碑の現代語訳
上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子 ■が (発願して)、 祖先および父母の為に、 ただいま家刀自 (主婦)の立場にある他田君目頬刀自、その子の加那刀自、孫の物部君午足、次の刀自、次の若刀自の合せて六
人、 また既に仏の教えで結ばれた三家毛人、 次の知万呂、鍛師の礒部君身麻呂の合せて三人が、このように仏の教えによって(我家と 一族の繁栄を願って)
お祈り申し上げる石文である。 神亀三年丙寅二月二十九日 |
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| 1370 |
1371
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6. 佐野屯倉と特別史跡山上碑
高崎市南部周辺には、ユネスコ 「世界の記憶」 に登録されている上野三碑があり、律令国 家の黎明期を雄弁に物語ります。 681年建立 の山上碑には、 佐野屯倉 (屯倉: ヤマト王権の 直轄地) の最初のリーダーであり、
6世紀後半 に活躍したとみられる健守命の名が記されています。6世紀後半に出現する漆山古墳、山名伊勢塚古墳といった前方後円墳の被葬者が、 佐野屯倉のリーダー層であったと考えられます。 |
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1373上野国分寺・国分尼寺
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上野国分寺・国分尼寺
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上野国分寺推定復元図
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上野国分尼寺伽藍想像図
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1375
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上野国分寺跡 |
奈良三彩
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素弁八弁蓮華文軒丸瓦
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単弁五弁蓮華文軒丸瓦
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軒平瓦 |
偏行唐草文軒平瓦 |
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1377
上野国分尼寺跡 |
文字瓦 |
子友,真弓 |
山田天 |
軒平瓦
偏行唐草文軒平瓦
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| 1380 |
1381
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7. 屯倉から評の設置へ
古墳時代から古代への変革期には、645年に始まる 大化の改新を契機として、 新たな行政単位である 「評」 が設置されます。
地方豪族の支配権が中央集 権的に再編される起点となり、 地方豪族に大きな衝撃となりました。
佐野屯倉は評の設置により分割され、 上毛野地域最後の前方後円墳とされる史跡観音塚古墳が所在する片岡評と、
総社古墳群が所在する 車評 (後の群馬郡) となりました。 |
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7. 屯倉から評の設置へ
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観音塚古墳の横穴式石室
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漆山古墳の横穴式石室 |
南西上空から見た山名伊勢塚古墳
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8. 多胡郡の建郡と特別史跡多胡碑・金井沢碑
7世紀末は、旧佐野屯倉勢力と鏑川南側の新 興勢力が対峙するようになります。
711年に多 胡郡が建郡、 多胡郡衙は鏑川南側に置かれ、 建郡碑の多胡碑が作られました。
726年には佐野屯倉の古地に金井沢碑が建 立されます。
屯倉のリーダーの子孫が記したも ので、 屯倉が分割された後 の奈良時代でも一定の存 在感を示していました。 |
8.多胡郡の建郡と特別史跡多胡碑・金井沢碑
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多胡碑と多胡郡 |
多胡郡衙(上野国多胡郡正倉跡)に建てられた倉庫群 想像画 |
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| 1383盾持埴輪
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| 1384装身具
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| 1385
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| 1400全国史跡整備市町村会議 |
| 1500全国史跡整備市町村会議 |
1510
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| 1520
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2000遺跡から読み解く地域の多様な歴史文化
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遺跡から読み解く
地域の多様な歴史文化
日本列島に生きた人々は、 その豊かな自然環境を背景として多様な歴史や文化を育んできました。 移動が容易になった現在でも、ところ変われば違った風景や
人々の営みに目を奪われることがしばしばあります。過去の人々の暮らしの痕跡である遺跡にも、そうした地域性を見ることができます。 これは、遺跡に文化的な系譜や、人々が生活していくための知恵やエ夫が凝縮されているためです。
本特集は、さまざまな視点から遺跡や遺物を見ることによって、個性豊かな日本の歴史文化を読み解き、紹介するものです。
今回は「埴輪列の世界」と題し、通時的な埴輪の配置・配列の変遷や地域的な特徴を取り上げ、実際に訪れることができる13の古墳をご紹介します。
古墳の外表に立て並べられた埴輪は、主に円筒埴輪を使い、垣のように墳丘を囲んだり、形象埴輪を集中的に配置して群を構成したり、あるいは列を成して並べられたりして意味を帯びていました。
埴輪の配置・配列は、王陵を頂点として一定の規範を有する体系化されたものと言えますが、 各地の古墳には地域の独自性が現れる場合もあります。 地域が辿ってきた歴史文化の写し鑑としての「遺跡」
の特徴的な姿を、ぜひご覧ください。
特1-1 埴輪列の世界 |
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2001
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埴輪列の世界
埴輪は、 前方後円墳の誕生以降、その種類や配置・配列位置を順次、整備・拡大していきます。
円筒埴輪は古墳時代前期初頭に成立し、最初の巨大前方後円墳である 箸墓古墳とほぼ同時期の 1.中山大塚古墳 (史跡大和古墳群) では、
後円部墳頂に集中的に配置されます。
前期前葉の 西殿塚古墳では墳丘を囲むように配列されることが確認され、
前期中葉には後円部墳頂で埋葬施設上を方形に囲む配列と墳丘の囲繞配列が組み合う定型化した円筒埴輪の配列 (2.史跡メスリ山古墳) を見ることができます。
また、 前期中葉には、家形や鶏形といった形象埴輪が出現し、 後円部墳頂に配置されます (3. 寺戸大塚古墳(史跡乙訓古墳群))。
前期後葉には、定型化した鰭付円筒埴輪 が成立し、方形埴輪列やその内外に盾・ 蓋・ 靫・甲冑などの器財埴輪が加わります。
中期前葉の6. 史跡宮山古墳の 後円部墳頂での埴輪配置はその代表格です。
前期末から中期初頭頃には、 古墳の周濠内に新たに 設けられる中島や出島に、 水鳥などの埴輪が配置される ようになり、
中期前葉の造り出しでは、家・囲などと共に、 船や水鳥が確認されています (7. 池田古墳、 8. 宝塚1号 墳(史跡宝塚古墳))。
水鳥や船に象徴される水辺を表現したこれらの埴輪配置は、古墳を水に浮かぶ島状のものとして捉える当時の他界観を反映していると考えられています。
特1-2 埴輪列の世界 |
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遺跡から読み解く
地域の多様な歴史文化
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埴輪列の世界Ⅰ |
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2010埴輪列の世界Ⅰ
取り上げる13の古墳と古墳各部の名称
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前方後円墳の各名称
※一重周濠の場合は周濠・周堤
後円部・前方部
渡り土手
外濠・内濠
中島・墳頂・墳丘・くびれ部
造り出し
出島(島状遺構)
内堤・外堤・テラス |
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2020埴輪列の世界Ⅱ
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埴輪列の世界Ⅱ
古墳時代中期中葉には、 人物埴輪が出現し、馬や猪などに加えて犬や鵜といった動物埴輪がほぼ出そろいます。
内堤や周堤と呼ばれる | 重目周濠の外側の堤に群をなし て配置されたと考えられており、造り出しのさらに外側に 新たな埴輪の配置場所が加わります。
この埴輪配置を理解する上で最も重要な資料が、古墳 時代後期前葉の10. 史跡今城塚古墳の内堤で見つかっ た埴輪群です。 解釈は諸説ありますが、 祭事・神事・狩猟 といった諸儀式の様子が表現されている点では見解が一 致し、物語性の高い埴輪配置が展開します。
横穴式石室が広く普及した古墳時代後期には、 特に後 期後葉の関東において、堤の上で群を成していた形象埴 輪が、 横穴式石室の開口部に合わせ、墳丘テラス上など
で列状に配置されるものが見られるようになります (12. 姫塚古墳(史跡芝山古墳群))。 これらも含め、 9. 保渡田八幡塚古墳(史跡保渡田古墳群) など、 中期末頃から後期の多くの 古墳の埴輪配置は、 今城塚古墳の埴輪配置を集約また は縮小・省略したものとして理解されています。
埴輪は前方後円墳の築造停止とともに姿を消します。 その意味で、埴輪列の世界は前方後円墳と共にあったの であり、古墳に込められた世界観とともに、 ヤマト王権の 性格や地域首長の政治的な関係性をも反映しています。
特1-4 埴輪列の世界 |
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遺跡解說1
古墳の出現と円筒埴輪の成立
史跡 大和古墳群中山大塚古墳 (奈良県天理市)
古墳時代前期初頭 (3世紀後葉)
中山大塚古墳は、古墳時代前期初頭 に築かれた墳長132mの前方後円墳です。 後円部の墳頂や石室周辺からは、
特殊器台形土器・特殊壺、 特殊器台形埴輪、円筒埴輪などが出土しました。
特殊器台形土器・特殊壺は、石室石材の上で意図的に破壊し散布した後、その上に墳丘の盛土が施されており、古墳の完成時には外部から見えない状態になっていました。
一方、特殊器台形埴輪と円筒埴輪は、墳頂の方形壇付近に配置されていたとみられ、使用法や配置状況が異なることが分かりました。
中山大塚古墳は、古墳出現期の大型前方後円墳である桜井市の箸墓古墳とほぼ同時期のものと考えられ、円筒埴輪の成立過程を研究する上で重要な手がかりと なっています。 |
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円筒埴輪の破片
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特殊器台形土器の破片
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竪穴式石室 (南から)
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2021
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遺跡解説2
後円部墳頂に方形埴輪列が成立
史跡 メスリ山古墳 (奈良県桜井市)
古墳時代前期中葉 (4世紀初頭)
メスリ山古墳は、古墳時代前期中葉 に築造された墳長237mの前方後円墳です。
後円部墳頂には石垣で囲まれた長方形の方形壇があり、その周りに は高さ1.2mの円筒埴輪約170本が、二重の方形埴輪列となるように配置されていました。 また、墳頂外周と各段テラスでは、円筒埴輪が墳丘を取り囲むように配置され、後円部と前方部をつなぐ スロープ状の隆起斜道の外縁にも円筒埴輪が立て並べられていました。
この古墳の北東に位置し、 メスリ山古墳の直前に築造された史跡桜井茶臼山古墳では、後円部墳頂の方形壇周囲に 丸太を方形に立て並べた丸太垣の痕跡を確認しており、
丸太垣が方形埴輪列に変化したと推測されます。 以降、方形埴輪列が後円部墳頂の埴輪配置として多用されるようになりました。 |
メスリ山古墳 |
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大型円筒埴輪
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方形埴輪列出土状況 (西から) |
石室と方形埴輪列の復元図 |
桜井茶臼山古墳丸太垣のイメージ
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2022
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遺跡解説3
後円部墳頂での形象埴輪配置の成立
史跡 乙訓古墳群 寺戸大塚古墳 (京都府向日市)
古墳時代前期中葉 (4世紀前半)
寺戸大塚古墳は、古墳時代前期中葉に築かれた墳長98mの前方後円墳です。 墳頂平坦面の外周、各段テラス、墳丘裾では、円筒埴輪が墳丘を取り巻くように大量に配列されていたことが分かっています。加えて、竪穴式石室の直上、後
円部墳頂の中央には、方形に板石を並べ、その内側に円礫を積んだ一辺8m、高さ20cmの方形壇があり、これを取り囲むように円筒埴輪・朝顔形埴輪53本が
配列されていました。
この方形埴輪列の内側に形象埴輪の基部とみられる小円筒が2本立てられ ており、方形壇の周辺では家形埴輪・鶏形埴輪の破片が出土しています。 鶏形埴輪には雌雄がある可能性も指摘されています。
この時期以降、形象埴輪が樹立されるようになりますが、 寺戸大塚古墳はその最初期の在り方と考えられます。 |
後円部墳頂での形象埴輪配置の成立
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家形埴輪・鶏形埴輪の破片
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埴輪配置模式図 |
後円部墳頂の方形埴輪列と 埴輪配置模式國
方形埴輪列の内部(■部分)に家と鶏が配置された可能性が想定されている。 |
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2023
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遺跡解説4
埴輪の波及と造形の地域性
史跡 埴科古墳群 森将軍塚古墳 (長野県千曲市)
古墳時代前期中葉~後葉(4世紀中頃~後半)
森将軍塚古墳は、古墳時代前期中葉から後葉に築造された墳長100mの前方後円墳です。
約200本の埴輪が墳頂外周や上段テラスに並んでいたと考えられ、円筒・壺形・朝顔形の他、合子形や家形が確認されています。
家形は後円部中央に配置されたとみられます。 円筒・朝顔形埴輪の製作技術や形態には地域的な独自性が見られます。
通常、 突帯は胴部に粘土ひもを貼り付けて成形されますが、本古墳では、 胴部の先端形埴輪 を外に折り曲げて突帯とし、 その上にさらに胴部を積み上げる独自の技法が用いられています。
また、胴部下半分が内湾する壺形埴輪は、 弥生時代後期に当地に成立した箱清水式土器の デザインを継承していると考えられます。こうした埴輪の特徴は、地域社会への埴輪導入の在り方を示す好例といえるでしょう。 |
埴輪の波及と造形の地域性
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復元された古墳と埴輪 |
埴輪の樹立位置 |
竪穴式石室
壷形埴輪
円筒埴輪
●特定できた樹立位置
○推定樹立位置 |
合子形埴輪(左)と
円筒埴輪(右) |
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2024
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遺跡解説5
墳頂・造り出し島状遺構の埴輪配置が判明
金蔵山古墳 (岡山県岡山市)
古墳時代前期末~中期初頭(4世紀末)
金蔵山古墳は、古墳時代前期末から中期初頭に築造された墳長約158mの前方後円墳です。
出土した埴輪には、円筒埴輪や朝顔形埴輪の他、家形・蓋形・形・甲冑形・靫形・囲形・柵形など、多様な形象埴輪 が含まれます。
後円部の二つの石室の上部には壇が造られ、 蓋形・ 盾形 を中心とする方形の埴輪区画が設けられていました。
前方部西側の造り出しでは、前方部斜面に沿って円筒埴輪が並び、 外側の柵形埴輪列との間の空間に家形・囲形などを配置していました。
島状遺構からは、ザル形土器や食物形土製品が出土し、食物を供える儀式が行われたと考えられます。
この島状遺構の谷部では、柵形・囲形・家形 の埴輪が見つかっており、家形埴輪は中の床面には、水を用いた祭祀に関係する木樋と水槽が表現されています。 墳丘各部の埴輪配置が明らかになった重要な資料です。 |
古墳復元図 |
後円部
島状遺構
前方部
造り出し
谷部
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造り出しの埴輪配置模式図
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→墳丘
朝顔形埴輪
円筒埴輪
家形埴輪(切妻)
囲形埴輪
柵形埴輪
家形埴輪 (入母屋)
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2025
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遺跡解説6
後円部墳頂の埴輪列の代表格
史跡 宮山古墳 (奈良県御所市)
古墳時代中期前葉 (5世紀初頭)
宮山古墳は、古墳時代中期前葉に造られた墳長245mの前方後円墳です。
後円部墳頂の 2基の埋葬施設をそれぞれ方形に取り囲む形 象埴輪列が検出されており、 南石室では二重の埴輪列の詳細が明らかになっています。 外
側埴輪列には、 盾形・靫形・甲冑形などの器財埴輪が並び、 盾形埴輪の一部には革製冑形 埴輪が上部に差し込まれていたとみられます。
内側埴輪列は円筒基部のみが残存しており、正確な器種は不明なものの、周辺出土の埴輪片から蓋形埴輪の可能性が考えられます。 竪穴式石室の 直上部には、 大型品を含む家形埴輪の破片が複数見つかり、中心的な存在 と考えられます。さらに、外側埴輪列の南辺外側には、 5棟の家形埴輪が東西に立て並べられていました。
王権中枢域の大型前方後円墳で、後円部墳 頂の形象埴輪配列が判明しているの は宮山古墳のみで、 埴輪配列研究にお いて欠かせない資料です。 |
宮山古墳 |
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古墳復元図と南石室の埴輪配置
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古墳復元図 |
南石室の埴輪配置図
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出土した形象埴輪 |
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ネコ塚古墳
周堤
造り出し
周濠
北石室
造り出し
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古墳復元図と南石室の埴輪配置図
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南石室
盾
靫
甲胄
盾+革製冑
家
○ 円筒·蓋
…埴輪列復元線 |
出土した形象埴輪 |
靫形
盾形
家形
高杯形
草摺形 |
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2026
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遺跡解説7
造り出しから全国最多の水鳥形埴輪
池田古墳 (兵庫県朝来市)
古墳時代中期前葉 (5世紀初頭)
池田古墳は、古墳時代中期前葉に築かれた墳長 134.5mの但馬地域 最大の前方後円墳です。 両側(北・南) の造り出しと渡り土堤が良好に 残っており、国内最多となる24体以上の水鳥形埴輪が、
造り出しなどから出 土しました。 水鳥形・家形・船形・形・囲形埴輪などの形象埴輪は、 主に 南造り出し・渡り土堤とその周辺から出土しています。
南造り出しを囲む多くの水鳥は、他界(あの世)を理 想郷として描く演出であり、ここが古墳の正面 (入り口) であったと考える説も提唱されています。
北造り出し上で は食物形や土器形の土製模造品が出土しており、 飲食 物の供献儀礼 (マツリ) が行われた可能性を示していま す。 当時の人々の他界観を考える上で貴重な事例です。 |
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・調査範囲 |
・南造り出しの
埴輪配置復元図 |
出土埴輪と土製模造品 |
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2027
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遺跡解説8
造り出しに装飾豊かな船
史跡 宝塚古墳 宝塚1号墳 (三重県松阪市)
古墳時代中期前葉 (5世紀初頭)
宝塚1号墳は、古墳時代中期前葉に造られた墳長111mの伊勢平野最大の前方後円墳です。
要所に盾形やつば付壺形埴輪 (壺B)を配した円筒埴輪列が墳丘を取り囲んでいました。
土橋により出島状に墳丘とつながる造り出しと、墳丘との間の谷部において、入母屋造りの家形埴輪(➀)が1棟と、
その奥に船首を土橋に向けて設置された船形埴輪(②)が出土しました。 船形埴輪は、他に例を見ない装飾豊かなものです。
造り出しの東西両側には、在地の伊勢型二重口縁壺に系譜を持つ壺形埴輪(壺A)に囲まれるように囲形埴輪・家形埴輪が配置されていました。船形や家形などによる造り出しでの埴輪配置ととも に、在地に系譜を持つ壺形埴輪が造り出しでのみ選択的に用いられるという地域性が確認できます。 |
造り出しに装飾豊かな船
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古墳平面図と造り出しの埴輪配置図 |
●柵
○円筒
●壺
●円筒+壺B
●蓋・盾・楕円筒
■敷石
■葺石 |
造り出し周辺から出土した埴輪 |
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2028
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遺跡解説 9
内堤に並ぶ人物埴輪や動物埴輪
史跡保渡田古墳群 保渡田八幡塚古墳 (群馬県高崎市)
古墳時代中期末(5世紀末頃)
保渡田八幡塚古墳は、古墳時代中期末に造られた墳長96mの前方後円墳です。 前方部側の内堤上で形象埴輪配列区が2カ所確認されました。
A区にはさまざまな姿や所作の人物 や動物などの形象埴輪が、 対面や列状に配置されており、首長権を継承する儀礼の場面を表現しているとみる説が長く支持されてきました。
その後、 A区の再調査が行われ、 「1対座して行う儀式の場面」 「2立って行う儀式の場面」「3鳥の列と鷹狩りとみられる場面」
「4猪狩りの場面」「5鵜飼いの場面」 「6武具や馬な ど財物を誇示する場面」 「7武人と力士などの 威儀的な場面」という七つの場面から成るとい う新たな説が示されました。
首長(王)による水に関する祭祀の場面を中心に、 狩猟などの諸儀式の様子や王の財物を示す様子など、 複数の場面を集合して表現していると考えられています。 |
内堤に並ぶ人物埴輪や動物埴輪
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A区埴輪群像の埴輪配置図  |
椅子に座る人物
全身像(人物)
半身像(人物)
馬
犬・猪・鹿
鶏
水鳥
武具(甲冑)
壺
シーン1~7 |
復元されたA区埴輪群像 (シーン1)
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平成期調査のA区埴輪群像出土状況
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2029
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遺跡解説10
解明された大王墓の埴輪列
史跡 今城塚古墳(大阪府高槻市)
古墳時代後期前葉 (6世紀前半)
今城塚古墳は、古墳時代後期前葉に築造された墳長 181mの前方後円墳で、真の継体大王墓とされています。
周囲に内濠と外濠が巡り、内堤北側の張り出しに形象埴輪230点を配置した埴輪群像が見つかっています。
この埴輪群像は、塀形埴輪列によって四つに区画され、 動物や人物の多くが西を向くように配列されています。
1区には人物埴輪はなく、 2区の人物埴輪は巫女に限られ、
3区には国内最大の家形埴輪、巫女や楽坐の人物埴輪、盾や靫などの器財埴輪、 水鳥や猿の動物埴輪が並び、最も賑やかな空間です。
4区には馬・牛・ 水鳥が列を成し、武人や力士な ども配列されています。
解釈には諸説ありますが、 大王の祭祀儀礼の場面を埴輪で再現したものと考えられます。 |
解明された大王墓の埴輪列
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古墳模式図 (左)と整備後の「埴輪祭祀場」 (北西から)
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内堤北側の張り出しの埴輪配置図
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2031
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遺跡解説11
九州特有の石の埴輪
史跡 八女古墳群 岩戸山古墳 (福岡県八女市)
古墳時代後期前葉 (6世紀前半)
岩戸山古墳は、古墳時代後期前葉に築造された墳長135mの前方後円墳です。
奈良時代に編さんされた 『古事記』『日本書紀』『筑後国風土記(逸文)』 などに登場する、 527年に継体大王と交戦した筑紫君磐井の墳墓とされています。
岩戸山古墳を特徴づけるのが、全国でも唯一確認されている43m四方の別区と石人・石馬 (石製表飾) です。
石人・石馬は、 福岡県南部から熊本県にかけて多く分布していますが、本古墳から100点以上が確認されており、総数は200点以上に及ぶと推測されます。
石人 には、他の古墳にも見られる立体的な「円体石人」 と、 岩戸山古墳特有の「扁平石人」とがあり、出土位置のデータから、扁平石人は墳丘に立て並べられ、円体石人は別区に配置されていた可能性が高いと考えられます。 |
九州特有の石の埴輪 |
岩戸山古墳の別区
(八女市提供) |
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石人(左: 円体石人 (鶴見山古墳出土)
中央・右: 扁平石人 (岩戸山古墳出土)) |
石馬 (伝岩戸山古墳) |
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2032
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遺跡解説 12
テラスで列を成す人物埴輪や動物埴輪
史跡 芝山古墳群 姫塚古墳 (千葉県横芝光町)
古墳時代後期後葉 (6世紀後半)
姫塚古墳は、古墳時代後期後葉に造られた墳長59.3mの前方後円墳です。墳丘北側中段のテラスから原位置をほぼ保った状態で形象埴輪列が発見されています。
45体の形象埴輪が前方部の角から後円部に向かって列を成すように配置されていました。
前方部には馬形埴輪とそれを引く馬子を西向きに配置し、くびれ部付近 に 「❺ひざまずく男」 や 「❷琴を弾く人」などさまざまな所作の人物埴輪があり、それらを挟むように男性埴輪が墳丘の外側を向いて配置されています。
男性埴輪は「❸ヒゲの武人」として知られ、 美豆良を結い顎ヒゲを蓄 え、山高帽をかぶった双脚の全身像です。
これらの埴輪列は、良好な遺存状況を保って出土しており、古墳時代後期の関東の埴輪配置の代表例の一 つとなっています。 |
埴輪配置図 |
・馬子と馬
・ひざまずく男
・二重の首飾りの女
・ヒゲの武人
・革ひものある冠を
かぶるヒゲの男 |
出土した埴輪 |
➀胡坐する男②琴を弾く人
③ヒゲの武人 (最後列:高さ約163cm)
④馬子と馬形埴輪⑤ひざまずく男
⑥革ひものある冠をかぶるヒゲの男
⑦箱を載せる女⑧二重の首飾りの女
全て重要文化財 |
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2033
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遺跡解説 13
機織りする女子を中心とする埴輪列
甲塚古墳 (栃木県下野市)
古墳時代後期後葉 (6世紀後半)
甲塚古墳は、 古墳時代後期後葉に造られた墳長推定80mの帆立貝形前 方後円墳です。
墳丘第1段目(基壇)の平坦面で埴輪列を確認し、墳丘西側 くびれ部付近には24体の形象埴輪が配置されていました。
女子がほぼ半数を占めることが特徴的である人物埴輪群には、彩色が残っており、 白地に赤の鹿の子柄など、当時の鮮やかな服装を復元すること
ができます。
形象埴輪列中央付近では、 機織りをする女性を表現した2種類の埴輪が出土しました。 一つは地機、 もう一つは原始機を表現した機織形埴輪です。
形象埴輪列の前方では土器群が出土しており、墳丘に並べられた形象埴輪列を目にしながら葬儀等の行為を行ったことも想定することができます。 |
機織りする女子を中心とする埴輪列
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古墳復元図と埴輪配置図
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人物埴輪群 |
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3000山城郷土館地域展
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3001
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地域展 「天平の風、 山背に薫る」
ごあいさつ
この度、 山城郷土資料館では、 特別展 「発掘された日本列島 2025」 を開催する運びとなりました。 全国各地を巡回する中核展示と併せて、
各館ごとの独自企画である地域展として、当館 では、 「天平の風、山背に薫る」と題して、奈良時代の南山城地 域にスポットを当てた展示を企画しました。
奈良の都、 平城京から見て北側にある奈良山丘陵の背後に位 置する山背国には、政治・生産・文化などに関する奈良時代の 重要な遺跡が数多く所在しています。
特に天平12年 (740) か ら3年余りにわたって都が置かれていた史跡恭仁宮跡 (山城 国分寺跡) は代表的な遺跡であります。 また近年では、 『万葉集』 に収録されている和歌が記された木簡が出土した史跡神雄寺
跡や、橘氏の氏寺である井手寺の塔跡が見つかった栢ノ木遺跡 など、重要な発見が相次いでいます。
今回の展覧会では、このような近年の発掘調査の成果を織り 交ぜつつ、珠玉の出土品をご紹介します。 奈良時代の南山城地 域の繁栄ぶりを感じていただければ幸いです。
最後になりましたが、 特別展を開催するにあたり、 貴重な資 料を御出品いただいた所蔵者様を始め、御指導・御協力いただ いた皆様に厚く御礼申し上げます。
令和7年9月
京都府立山城郷土資料館
館長 福島 孝行 |
本展時に関連する遺跡位置図
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中山城
井手寺跡
(栢ノ木遺跡)
史跡 恭仁宮跡
(山城国分寺)
銭司遺跡
山城郷土資料館
樋/口遺跡
市坂瓦窯跡
(史跡 奈良山瓦窯跡
上人ヶ平遺跡
史跡 神雄寺跡
梅谷瓦窯跡
瀬谷瓦窯跡
(史跡奈良山瓦窯跡
平城宮跡 |
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3100恭仁京
※恭仁京 694年 藤原京→710年第1次 平城京→740年恭仁京→744年 難波宮→744年 紫香楽宮→745年第2次 平城京→784年 長岡京→794年 平安京
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3110
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史跡 恭仁宮跡
天平12年(740) 12月、 聖武天皇により平城京から遷都され、天平 16年2月に難波宮に遷都されるまで、3年余りにわたって都が置かれていた。
宮の中心的な施設である大極殿は、 平城宮の第一次大極殿が移築されたことが文献史料や発掘調査によって明らかになっており、 現在でも基壇や礎石が地表に残っている。
恭仁宮跡の発掘調査は、 京都府教育委員会が中心となって昭和 48年度から継続的に実施されており、 宮域の四至の確定、 2つの内裏地区の構造解明、
朝堂院 朝集院地区の規模の確定、 幢旗遺構の発見などの調査成果がある。 |
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恭仁宮跡 |
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発掘調査に基づく恭仁宮復元図
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内裏西地区
内裏東地区
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大極殿
大極殿院 |
朝堂院 |
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3120軒瓦 恭仁宮跡 奈良時代 8世紀
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左側の軒丸瓦・ 軒平瓦は恭仁宮造営に合わせて新調された瓦である。
同笵 瓦が還都後の平城宮や、 井手寺など南 山城地域の寺院に供給されている。
右側の軒丸瓦・軒平瓦は平城宮から搬入された瓦である。 |
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一般に「恭仁宮文字瓦」といわれて いる。恭仁宮造営のための瓦工房の工 人が、各自の製品を峻別するために人 名の刻印を捺したものである。
恭仁宮 跡では、 現在までに25種類の文字が 見つかっている。 |
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3130恭仁宮宮殿 瓦葺模型
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恭仁宮宮殿瓦葺模型
この瓦葺模型は、恭仁宮大極殿跡等から出土した瓦を葺いたものである。 恭仁宮の瓦は 奈良時代の瓦の中ではとくに部厚く、ていねいにつくられていて、 平瓦1枚約5.2kg、 丸瓦1枚約3.1kgある。
恭仁宮大極殿には平瓦約6.0万枚、丸瓦約2.5万枚使われていたと推定され、 その総重量は約390トンに達する。 これに、 平瓦・丸瓦以外の瓦や葺上用の土を加えると屋根の重量はさらに重くなる。 この重い屋根 支える木造建築をつくるには、 高い技術と多大な労力を必要とした。 |
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3200山背国分寺跡
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山背国分寺跡
恭仁宮は3年余りの短命の都であったが、 天平18年(746) には山背国分寺として造り替えられ、 恭仁宮の大極殿は国分寺の金堂として施入された。
また、金堂の南東には七重塔が建てられた。 その基壇が現地に残っており、 基壇上には15基の礎石が原位置を保ったままで現 存する。
恭仁宮跡の発掘調査に伴って、 山背国分寺跡についてもその構造が徐々に明らかとなっている。
令和6年度には寺域の北東で礎石建物が見つかり、 食堂院であった可能性が考えられている。 |
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山背国分寺 |
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山背国分寺の創建瓦である。 紫香楽宮に造営された甲賀寺跡で同笵瓦が出土しており、
笵傷の進行により、 甲賀寺から山背国分寺へ笵が移動したとみられている。 |
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山背国分寺跡出土
軒丸瓦 軒平瓦
奈良時代 8世紀
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山背国分寺跡出土
二彩陶器盤
二彩陶器脚
奈良時代 8世紀
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山背国分寺跡出土
風鐸風招
奈良時代 8世紀
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風招 |
風鐸 |
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3300神雄寺跡
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3310
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史跡 神雄寺跡
奈良山丘陵の北東端部に位置しており、 平成20年度に実施された発掘調査で初めてその存在が明らかとなった寺院跡である。
大量の灯明皿が出土した流路や、 仏堂や礼堂、 塔などの建物遺構 が検出された。
「神雄寺」 と書かれた墨書土器が出土したことで寺院名が明ら かになったほか、 『万葉集』 に収録される和歌の一部が記された木簡、 数千枚に及ぶ灯明皿、多量の三彩陶器、 施釉山水陶器など多 種多彩な遺物がまとまって出土した。 その質・量ともに優れていることから、 皇族や貴族層が関与していた寺院であると考えられている。 |
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重要文化財 京都府神雄寺跡出土品
歌木簡「阿支波支乃之多波毛美智」
奈良時代 8世紀 |
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木簡に万葉仮名で記されている和歌 は、 『万葉集』 第10巻2205 番 「秋 萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ぬ れば風をいたみかも」 と同一であるとみられ、この場所で歌会が行われた可能性を示している。 |
塑像残欠
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塑像の残欠は、本堂とみられる礎石建物跡から出土した。
展示品は、 天部 とみられる仏像の顔面や装束の一部で ある。 眼球にはガラスが埋め込まれて いたとみられ、 被熱により溶け出して いる。 |
重要文化財 京都府神雄寺跡出土品
塑像残欠
奈良時代 8世紀 |
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重要文化財
京都府神雄寺跡出土品
ガラス管
奈良時代 8世紀 |
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3321土師器皿
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(山城郷土資料館寄託)
神雄寺跡では、 約 8,000 枚の灯明皿が出土した。
文献史料には、「燃燈供養」という数千の明かりを灯す法会が行われたことが記されており、 神雄寺でも同様の法会が行われていた可能性がある。 |
重要文化財
京都府神雄寺跡出土品
土師器皿
奈良時代 8世紀 |
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土師器皿
奈良時代8世紀
山城郷土資料館
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重要文化財 京都府神雄寺跡出土品
三彩陶器火舍
三彩陶器托
三彩陶器净瓶
三彩陶器塔錠蓋
三彩陶器小壺
三彩陶器蓋 |
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3323墨書土器
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「悔過」 とは仏教用語で悔い改めることであり、 またそのための法会のこ とも指した。 文献史料によれば、 奈良 時代には悔過の法会が盛んに行われて おり、この墨書土器もそれに関係する
ものとみられる。
重要文化財 京都府神雄寺跡出土品
墨書土器 「神雄寺」「悔過」「黄葉」(蓮)
奈良時代 8世紀
木津川市教育委員会
(山城郷土資料館寄託) |
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施釉山水陶器には、「左五」などの墨
書を持つものがあることから、複数の パーツを組み合わせてひとつの大きな 山水を表現していたと考えられる。 そ の用途はまだ確定していないが、何らかの法会で使われたとみられる。
重要文化財 京都府神雄寺跡出土品 施釉山水陶器
奈良時代 8世紀 |
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3400栢ノ木遺跡
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AI による概要
栢ノ木遺跡は、京都府綴喜郡井手町にある奈良〜平安時代の寺院「井手寺」の五重塔跡が確認された重要な遺跡です。
橘諸兄が創建した氏寺の一部と見られ、約15m四方の巨大な塔の基壇(基礎部分)が良好な状態で発見され、当時の技術と権勢を示す国指定史跡級の価値があるとされています。
主なポイントは以下の通りです。
・場所: 京都府綴喜郡井手町井手。井手町新庁舎建設予定地。
・特徴: 寺院の主要部(金堂など)から離れた場所に塔が独立して建つ「塔院」形式をとる。
・時代: 奈良時代後半〜平安時代前期に建立、平安中期に修復、鎌倉時代に荒廃。
・発見の意義: 地方の豪族(橘氏)が中央の寺院並みの技術で大規模な五重塔を建てていたことを示す、貴重な資料。
この遺跡の発見は、平安時代の歴史と文化を紐解く上で、極めて重要な成果として評価されています。 |
軒丸瓦 栢木遺跡(井手寺跡) 奈良時代8世紀
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栢ノ木遺跡(井手寺跡) 出土
軒丸瓦 軒平瓦
奈良時代 8世紀
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塔の創建瓦には、奈良時代に生産されたもの(左側) と平安時代に生産されたもの(右側) がある。
奈良時代の軒瓦は、 恭仁宮造営停止後に井手寺造営のために笵が移動して生産されたと考えられている。 |
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風招 栢ノ木遺跡(井手寺跡)出土 平安時代前期
風招は、風鐸とともに塔の四隅に吊るされていたと考えられるもので、 鍍金がよく残っている。
三角形の銅製品は、 仏具である馨の一部である可能性がある。 |
風招 |
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栢/木遺跡(井手寺跡)出土
風招
平安時代前期 |
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栢ノ木遺跡(井手寺跡) 出土
銅製品
平安時代前期 |
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3500銭司遺跡
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京都府指定史跡 銭司遺跡
恭仁宮跡の東方、 木津川北岸に位置する遺跡である。 現地には
「金鋳山」「和銅」 「金谷」 などの小字があり、 明治時代から地元の人によって、 和同開珎、 坩堝、 鞴の羽口、 銅滓などが表採されていた。
『日本三代実録』 に登場する 「岡田郷鋳銭司」 は、 その記述内容から、銭司遺跡がこれに該当するとみられている。
なお、上記の記述がある貞観7年 (865) 段階で 「旧鋳銭司」 とあることや、 銭司遺跡では和同開珎以降の皇朝十二銭が出土し ていないことから、平安時代には操業を停止していたと考えられ る。 |
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銭司遺跡 |
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銭司遺跡出土 和同開你
奈良時代 8世紀
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和同開你
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坩堝
奈良時代 8世紀 |
銅滓
奈良時代 8世紀 |
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羽口
奈良時代 8世紀 |
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3550奈良山瓦窯跡
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史跡 奈良山瓦窯跡
京都府と奈良県の間にある奈良山丘陵には、 奈良時代の瓦窯跡が点在しており、 現在40箇所以上が見つかっている。
京都府側 では、 主にニュータウン開発に伴う発掘調査で瓦窯跡の様相が明らかとなり、その一部が史跡に指定されて保護されている。
上人ケ平遺跡と市坂瓦窯跡は一体の遺跡である。 上人ケ平遺跡では、古墳の周溝を再掘削した痕跡や、 大型掘立柱建物群が見つかった。 ここでは粘土を捏ねたり、 瓦を乾燥させたりする作業が 行われていた瓦工房であることが判明した。 その瓦を焼成していた市坂瓦窯跡では8基の窯跡が見つかっている。これらの遺跡は
史跡公園として保護されている。 |
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上人ヶ平遺跡出土 軒丸瓦 市坂瓦窯跡出土
軒平瓦 奈良時代 8世紀 木津川市教育委員会
軒丸瓦は平城 6133Ab 型式、軒平 瓦は平城 6732C 型式であり、いずれ も平城宮大膳職など宮内を中心として 供給された。 |
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瀬後谷瓦窯跡出土
軒丸瓦、軒平瓦
奈良時代 8世紀
木津川市教育委員会
軒丸瓦は平城 6284Ea 型式、軒平瓦は平城 6668A 型式であり、 長屋王邸など平城京内の邸宅を中心として供給された。 |
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梅谷瓦窯跡出土
軒丸瓦 軒平瓦
奈良時代 8世紀 木津川市教育委員会
軒丸瓦は平城 6301A型式、 軒平瓦 は平城 6671A型式であり、いずれも 興福寺の創建瓦として供給された。 |
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3600栢ノ木遺跡(井手寺跡)
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3601
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栢木遺跡 (井手寺跡)
井手町の台地上に所在する遺跡である。 令和23年度に実施された発掘調査で、 寺域東側の隣接地で未知の塔の基壇が見つかった。
基壇の上部は削平されていたが、 周辺の石敷きや雨落ち溝、 四方に取り付くとみられる階段などが良好に残っていた。
基壇に富寿神宝 (818年初鋳) が埋納されていたことから、 塔 の建立は平安時代前期であることが判明した。 一方、塔跡から出 土した瓦には、 井手寺本体が創建された奈良時代に生産された瓦
が多く含まれていた。 瓦をストックしていた、 もしくは別の建物 から転用したなどの可能性が考えられている。 |
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栢ノ木遺跡 (井手寺跡)出土
二彩陶器盤
奈良時代 8世紀
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栢/木遺跡(井手寺跡)出土
青磁碗青磁皿
平安時代前期9~10世紀
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栢/木遺跡(井手寺跡)出土
灰釉陶器椀
平安時代前期9~10 世紀
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3603
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栢ノ木遺跡(井手寺跡)出土
三彩垂木先瓦
奈良時代 8世紀
屋根を支える垂木の先を装飾するための瓦である。
類例は、 大安寺、 薬師 寺、 西大寺など限られた遺跡でのみ出 土している。 表面に線刻の文様があ ものは井手寺跡でしか出土していない。
文様には複数のパターンがある。 |
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栢ノ木遺跡
(井手寺跡)出土
三彩垂木先瓦
奈良時代 8世紀
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3700樋ノ口遺跡
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樋ノ口遺跡
木津川の右岸、 木津川市と精華町の境界にまたがる遺跡で、 山田川によって形成された開析谷の出口付近に位置する。
道路建設に伴う発掘調査で、 正方位に軸を持つ奈良時代の掘立 柱建物群や並行する溝群などが見つかった。
また、 多量の彩釉陶 器が出土しており、 寺院跡もしくは離宮跡ではないかと考えられ ている。
出土品の中で注目されるものとして、獣を象った硯がある。
羊 もしくは龍の形であるとみられるが、 同様の出土品は平城京など 全国でも数例しかなく、 非常に貴重なものである。 |
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樋ノ口遺跡 |
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樋/口遺跡出土
二彩陶器薬壺蓋
奈良時代 8世紀 |
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樋/口遺跡出土
三彩陶器小壺
奈良時代 8世紀
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樋/口遺跡出土
灰釉陶器净瓶
奈良時代 8世紀
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樋/口遺跡出土
灰釉陶器獣形
奈良時代 8世紀 |
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