発掘された日本列島2025 2025.7.16sasebo
発掘された日本列島2025展
佐世保市博物館島瀬美術センター 長崎県佐世保市島瀬町6-22
0956-22-7213 月休 撮影可
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はじめに
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島瀬美術センターでの撮影では沢山のピンボケが発生しました。そこで、「発掘された日本列島2025」の主な展示は「京都府山城郷土館」の写真を使用することにし、そこでもピンボケの発生した場合は、島瀬美術センターの写真と入れ替えることにしました。
そこで
、今回の島瀬美術センターの写真は、佐世保市博物館島瀬美術センターが、独自で用意された展示物や資料等を使用することに致しました。
今回のピンボケの大量発生は、北海道網走市で急遽買い求めたSONYのミラーレスカメラが、意外にも低級だったことにあるようです。
おそらくレンズの明るさも、内部機構も劣っているのが明白です。しかし、2023年、2024年の同展では問題がなかったのに、なぜ今回から
問題が起こったのかは分かりません。何かがおかしいと思っています。 |
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目次
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01外観
1000 3F我がまちが誇る遺跡
2000 2F新発見考古速報
2700 2F佐世保の近代化遺産
2710発掘された日本列島2025
~新発見考古速報展 佐世保版~
近代化遺産も佐世保の宝
2730佐世保鎮守府の礎
3000 3F遺跡から読み解く多様な歴史文化
3010埴輪列の世界Ⅰ
3100埴輪列の世界Ⅱ
パネル展示
3200長崎県内の特別史跡
3201特集 長崎県の特別史跡+
~日本最西端の世界への窓口~
3210長崎県内の史跡
3220特別史跡 原の辻遺跡
3240特別史跡 福井洞窟
※考察 細石刃文化人と非細石刃文化人
3260特別史跡 金田城跡
3400日本の特別史跡
3420五稜郭
中尊寺
3430日光杉並木街道
加曽利貝塚
一乗谷朝倉市遺跡
登呂遺跡
3440姫路城
平城宮跡
石舞台古墳
閑谷学校
3450太宰府跡
西都原古墳群
3460日本の特別史跡 |
3500佐世保の重要遺跡
3510福井洞窟
3560直弥岩陰
4000 4F郷土史体験館
4010この石はどこから採れるの?
4020現代の古代人!
4030矢と矢筒
4040土器文様
4060弓
4070チョット前の道具
50005F発掘された郷土
5002貝輪
5003日本考古学史に残る発掘
5004掘り出された郷土の歴史
5010 1.文化のあけぼの
5011西北九州の旧石器文化
~洞窟と遺跡~
5013ナイフ形石器
5018小さな槍先の作り方
5020 2.土器の発明
5021史跡 泉福寺洞窟
細石刃はどうやって
5022豆粒文土器
5024細石刃と細石刃核
5026いろいろな石器
5029石槍
5030 3.泉福寺洞窟の復元
5032ジオラマ
5034洞窟の生活
5035下本山岩陰遺跡弥生人の
DNAから見えたこと
5036岩下洞穴
5037縄文早期人の人骨
5040 4.縄文人の山の生活
5051下本山岩陰遺跡
5055 5.縄文人の海辺のくらし
5057土器
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5100 6.弥生文化の波及
5110宮の本遺跡
腕輪が示す貝の道
5111生活道具
※考察 なぜ7体の人骨が貝輪を?
※考察 有孔円礫
5151四反田したんだ遺跡
~活発な海外との交流の地~
5152暮らしの道具
5061門前遺跡
5170 7.地方豪族の出現
5171古墳時代
5173鬼塚古墳
テボ神古墳とは
5175松ヶ崎古墳
5180 8.中央文化の波及
古代
5181奈良~平安時代
5182三島山経塚
5185陶片
5190 9.武士集団の出現
中世
5191鎌倉~戦国時代
5193針尾城跡
5200 10.近世手工業の発達
近世
5201江戸時代
5202三川内東窯跡
5203平戸八景
5204大友宗麟のメダル
5206早岐の暮らし
5210 11.佐世保市の地形と遺跡
5240 14.埋葬人骨
5241箱式石棺の合葬
下本山岩陰の弥生人骨
5243下本山岩陰土壙墓
5245下本山岩陰 石棺墓 |
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01外観
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超有名な島瀬美術センターの外観は正方形の大きな方形に区画され、区画の真ん中に丸いものが突き出たものが、整然と並んでいる外観デザインです。
私は以前からこの突き出た突起は何だろうと思っていました。そして、きっとこの館で有名な「豆粒文」をモチーフしたのではと思っていました。
今回、たまたま、外観写真を縮小せずに掲載するミスがあり、そのとっきの 先端に何やら模様が見えたのでこの突起を詳細に見たところ、なんと、突起の中には、ギリシャ彫刻風な人物像が四列二段に作られ、それが横へ、上へと繰り返されていました。
つまりこのビルの壁面全てにですよ。アッと驚きました。さすがは美術館だと思いました。 |
ビル全館画展示会場
エレベーター扉にラッピングされた会場案内 |
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| 3F |
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発掘された日本列島2025
我がまちが誇る遺跡 |
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| 中2F |
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発掘された日本列島2025
特集 埴輪列の世界 |
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3F
1000我がまちが誇る遺跡
A洞窟王国佐世保 (長崎県佐世保市)
B琵琶湖の水中遺跡 (滋賀県)
C東国千年の都 (群馬県前橋市・高崎市)
この写真展示は、京都府山城郷土館 で行ないます。
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2F
2000新発見考古速報
縄文時代: 上粕谷・秋山遺跡、前田遺跡
弥生時代: 顕孝寺遺跡、高畑遺跡、高橋遺跡
古墳時代: 上官塚古墳、陵東遺跡、曽我墓所遺跡
中 世 : 子易・中川原遺跡
近 世 : 御土居跡
この遺物展示(巡回展の本展示)は、京都府山城郷土館会場 で行ないます。理由は、佐世保会場の展示があまりにも多いからです。
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2F
2700佐世保の近代化遺産
ここから以下の 2700~2799 までは、島瀬美術センターのオリジナル展示です。いわば地域展です。
発掘された日本列島岡山会場以降、展示と言えないほどの、矮小な、地域展をする館がありましたが、佐世保では、福井洞窟ミュージアムまるごと、
および、島瀬美術センターでの「発掘日本の本展示」以外であいた各階のフロアーを、全て展示会場として、地域展を行なっています。
従って、以下は、島瀬美術センターにおける地域展です。なんという凄い企画でしょう。 |
2710
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発掘された日本列島2025
~新発見考古速報展 佐世保版~
近代化遺産も佐世保の宝
日本本土の最西端に位置する佐世保市は、 明治22 (1889) 年に鎮守府 が開庁すると、 近代的な軍港都市として急激に発展を遂げました。 朝鮮半 島や中国大陸に近いという立地条件から、 実戦的な前線基地としての性 格が強く、艦隊への補給や艦艇の修理能力に重点を置いた施設整備が 行われていきました。
佐世保の地に鎮守府という日本海軍の拠点がおかれたことで、都市に とって最も重要な設備である水道施設をいち早く整備し、 鉄道敷設、 市街 地区画整備などといった大規模なインフラ整備が急速に進みました。 イン フラが整った佐世保のまちには、 人や最先端の技術が集まり、 軍港を中 心とした近代的なまちとして、 発展してきました。
市内各所に鎮守府ゆかりの文化財が残っており、 100年を超える時が たった現在でも、 稼働している施設が多く残ります。 また、鎮守府がもたら した工業技術はいまも脈々と受け継がれています。
このように日本の近代化を推し進めた鎮守府設置の四市は、 日本遺産 「鎮守府横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体験できるま ち~」に認定されています。
佐世保市では約500件の構成文化財の調査・ 研究・保護を推進しており、 時には発掘調査による研究や記録保存も行 なっています。 |
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発掘された日本列島2025
~新発見考古速報展 佐世保版~
佐世保の主な近代化遺産 |
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重要文化財 西海橋
登録文化財 福井川橋梁
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登録文化財 吉田橋梁
登録文化財 吉井川橋梁
登録文化財 観潮橋
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登録文化財
佐世保鎮守府凱旋記念館
無窮洞
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登録文化財 旧佐世保鎮守府武庫預兵器庫
登録文化財 佐世保重工業二五〇トン起重機
重要文化財 黑島天主堂 |
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発掘された日本列島2025
~新発見考古速報展 佐世保版~
近代化遺産 de 考古学
佐世保市内にある近代化遺産のうち、 旧佐世保無線電信所 (針尾送信所) 施設、 西海 橋をはじめ多くの建造物が国重要文化財や登録文化財に指定・登録されています。
これ らの文化財建造物のほか、 周知の埋蔵文化財包蔵地 (=遺跡) として保護しているケース もあります。
文化財等建造物は学術調査や経年劣化による解体工事中の不時発見など様々な場 面で調査を行なっており、 時には発掘調査により価値の検証、保存を行う機会が多いこ
とが佐世保市の特徴ともいえます。
ここでは、近年明らかになった近代化遺産の調査事例を紹介します。 |
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【重要文化財旧佐世保無線電信所 (針尾送信所) 施設】
1922(大正11) 年に建設された高さ136mの無線 塔を象徴とする無線施設で、当時のコンクリート技術 の結晶と評価されています。 近年、劣化状況の確認の ための調査で地表下6mまで掘削し、100年以上前の 基礎の形状の確認を行いました。 現代の建築基準を 遥かに超える強度を今もなお保っていることが確認 できました。 |
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【佐世保鎮守府倉庫跡】
明治20年から終戦まで旧大日本帝国海軍佐世保鎮守 府の「廃棄艦処分品第一仮格納庫」 と記載される地点 で、 「佐世保立神歴史公園」 整備の一環で調査を行いま した。 調査の結果、 コンクリートの重厚な床面構造を持 ちつつも、 明治期と同様の砂岩製周溝が設置されている 等、 煉瓦や石材の建物からコンクリート建物への過渡期 的構造であることが判明しました。 |
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【佐世保要塞砲兵連隊衛戍病院跡】
長崎県佐世保こども・女性・障害者支援センターの移 転工事に伴って発見された遺跡で、 発掘調査の結果、 調 査区で出土した煉瓦基礎などの遺構は明治32 (1899) 年に竣工した佐世保要塞砲兵連隊に付随する衛戍病院 の構造物であることが確認されました。 遺構としては、 19.0m×9.8m、高さ最大0.5m (煉瓦11段) に及ぶ 「管 理所」 跡の煉瓦基礎や 「附属家」 跡のトイレ遺構が検出 されました。 |
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2730
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佐世保鎮守府の礎
~未だ地中に眠る近代化遺産~
鎮守府関連遺構
佐世保市内では、 発掘調査により煉瓦が出土すること があります。 様々な文献や写真も残っていますが、 資料 に記されていない近代建造物が突如として姿を表すこと があり、それらの建物の性格は、 考古学的手法で明らか にしなければなりません。 知られていない地下に眠る建 物は、鎮守府や佐世保の街の成り立ちをさらに知る手掛 かりとなっています。 |
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105年経過した針尾無線塔の強さ
~未だ建築基準を満たすコンクリート~
針尾送信所
現在、 長崎県内で最も高い建造物は大正時代に建てられ た針尾送信所。健全性を保っている秘密は、 綿密な設計 と施工技術。 普段は見ることができない地下構造 (基礎 部分)を検証するための発掘調査を行い、 100年以上ぶ りに陽の光があたりました。 古い時代の遺跡とは違った ワクワク感もあります。 |
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旧軍跡地の名残
~兵器からコーラまで~
佐世保鎮守府倉庫跡
佐世保市は明治時代の海軍鎮守府設置で発展を遂げた 街。地中には当時の名残が多く残ります。
旧軍跡地では、 薬莢等の兵器のほか、戦後に米軍に接収 されたことを示す米兵向け日本最初のコーラ瓶などが見 つかっています。 発掘調査によって、 文献ではわからな い細やかな人々の営みを垣間見ることができます。 |
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ペスト発生で焼き払われた集落
~明治の生活がそのまま残る遺跡~
九州文化学園構内遺跡
佐世保中央インターチェンジ建設に伴う事前調査とし て発掘調査が長崎県教育委員会により実施されました。 この地には下矢岳町の集落 (167) がありましたが、 ペストの発生により蔓延防止を目的に全て焼き払われて います。 その後、日本軍の練兵場として様々な施設が建 造され、終戦後は米軍に徴収されています。明治時代の 暮らしを知る貴重な遺跡です。
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重要文化財 西海橋
2020年指定
西海橋は、1955年に完成した全長316mの鋼アーチ橋 で、当時は東洋一と称された世界有数の規模を誇る橋で した。 その構造は高度な土木技術と造船技術を融合させ たもので、戦後日本の復興と技術力の象徴といえます。 また、橋の下を流れる針尾瀬戸の渦潮と調和した景観は 美しく、観光地としても多くの人々に親しまれています。 これらの点から、西海橋は歴史的・技術的景観的に優 れた長崎を代表する近代土木構造物です。
『空の大怪獣ラドン』
1956 (昭和31)年に公開された東宝初のカラーによる怪獣映画。
佐世保や福岡に飛来し、 完成間もない 「西海橋」を壊した。
70年前の佐世保の風景を見ることができ、 その点 でも貴重な映画。 |
※修学旅行でこの橋をわざわざ渡りました。当時の観光スポットで、バスガイドさんが丁寧に説明してくれました。
その時、ラドンが壊したと、映画の説明もありました。きっと、西北九州ではこの映画が掛かると、映画館は超満員になったでしょう。
しかし、なぜ放射性物質ラドンなのか。ゴジラはゴリラから取ったのですが。当時はラドン温泉がはやり、家庭にもラドン温泉の素が
売られていました。やがて、この温泉の素は、福島原発の爆発で広範囲の放射能調査の際に、家の床下や庭に放置されているのが発見され、
大問題になりました。やはり、当時の技術を結集した巨大橋梁西海橋を壊すほど、ラドンは危険物質だったのです。
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3F
3000遺跡から読み解く多様な歴史文化
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3010埴輪列の世界Ⅰ
3100埴輪列の世界Ⅱ
このパネル展の写真の掲示3010~3199までは、京都府山城郷土館 で掲載します。
ここでは、他の館(山城郷土館・三重県総合博物館)で展示されなかった、島瀬美術センターだけの展示物を掲載します。
これはあまりにも膨大な量になるからです。
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パネル展示
3200長崎県内の特別史跡
この展示写真の3200~3560までは、島瀬美術センターのオリジナル展示 です。 |
3201
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Retto Ten
2025 発掘された日本列島 2025
特集 長崎県の特別史跡 プラス
特集 遺跡から読み解く多様な歴史文化 佐世保版 |
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パネル展
長崎県の史跡と特別史跡
~日本最西端の世界への窓口~
史跡・ 特別史跡とは?
過去の人間活動の痕跡が残された場所を「遺跡」と呼びますが、 日本の歴史や文化を理解する上で重要な遺跡は国 の「史跡」、その中でも特に重要なものは
「特別史跡」に指定されます。 全国には約47万件の遺跡がありますが、 現 在史跡に指定されているのは 1,911 件で、 そのうち特別史跡は64件のみ!
特別史跡はいわば遺跡の国宝です。 今回のパネル展では、 長崎県内の史跡と特別史跡についてご紹介します。
長崎県内の史跡・特別史跡
長崎県は、 日本列島の最西端に位置するという地理的特性から、 あらゆる時代において対外交流の窓口として日本 史の中に登場します。 県内には旧石器時代から近現代に至るまで実に幅広い内容の史跡が存在しており、各時代にお いて歴史上重要な役割を担ってきました。
県内では 3,800 件を超える遺跡がある中で、 国の史跡としては34件が指定されており、 そのうち3件が特別史跡 に指定されています。 |
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3210長崎県内の史跡
長崎県内の史跡 |
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長崎県内の史跡
長崎県内には様々な史跡が所在しています。 ここでは、各エリアにおける史跡をトピック的に紹介します。 |
島嶼部の史跡
壱岐古墳群 |
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島嶼部の史跡 壱岐古墳群
6世紀後半から7世紀初めにかけて相次いでつくられ た6基(前方後円墳2基 円墳4基) の古墳からなり、 当時の壱岐の首長が埋葬された墓と考えられています。 県内最大の前方後円墳 (双六古墳) を含み、 中国大陸や 朝鮮半島との交流を示す副葬品が数多く発見されていま す。 |
県北の史跡
鷹島神崎遺跡
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県北の史跡 鷹島神崎遺跡
鎌倉時代に起きた元寇(蒙古襲来)の舞台となった鷹 島沖の海底からは、二度目の侵攻 (弘安の役)の際、暴 風雨により沈没した元の軍船が発見されています。 元軍 が使用していた様々な道具も出土しており、元寇の実態 解明に大きく寄与しています。 水中遺跡としては、全国 初かつ現時点で唯一の史跡であることでも有名です。 |
県南の史跡 出島和蘭商館跡
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県南の史跡 出島和蘭商館跡
鎖国下にあった江戸時代の日本において、唯一西欧に 開かれたのが出島でした。 小さな人工島でありながら、 日本の近代化に大きな役割を果たしました。 役目を終え た明治以降、 出島の周囲は埋め立てられ、 海に浮かぶ扇 形の島は姿を消しましたが、 現在は復元整備が進み、往 時の出島を感じられる空間が広がっています。 |
島原半島の史跡 原城跡
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島原半島の史跡 原城跡
江戸時代、 キリシタン弾圧が進むなかで、 天草四郎を 総大将とした 「島原 天草一揆」 が起こり、数万人のキ リシタンや農民が原城跡に立てこもりました。 一揆勢は 幕府軍により鎮圧され、その後は徹底的な禁教と鎖国体 制が成立し、 潜伏キリシタンの発端となりました。 本史 跡は、 世界文化遺産 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン 関連遺産」の構成資産にもなっています。 |
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3220特別史跡 原の辻遺跡
~2000年前の海上交流拠点~
特別史跡 原の辻遺跡 |
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特別史跡 原の辻遺跡
原の辻遺跡は、 長崎県で2番目に大きい平野 「深江田原」に広がる弥生時代を代表する大規模環濠集落跡。 |
原の辻遺跡はココが特別 |
特別史跡
原の辻遺跡の位置 |
原の辻遺跡はココが特別!
原の辻遺跡は、 今から2000年前の弥生時代における「東アジア諸国との交流史」 を知ることができる国内でも稀有な遺跡です。
全国に数多く残る弥生時代の集落遺跡で、国の特別史跡に指定されているのは、静岡県の登呂遺跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡、そしてこの原の辻遺跡の3例のみです。
おすすめアクセス
長崎空港から壱岐空港まで飛行機で約30分 福岡博多ふ頭から壱岐島まで高速船で約60分 福岡博多ふ頭から壱岐島までフェリーで約120分 佐賀唐津東港から壱岐島までフェリーで約90分 |
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3230
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発掘された原の辻遺跡!
原の辻遺跡は、長崎県で2番目に広い平野である 「深 江田原」にあり、島内各地の山麓から湧き出た水が集 まり、 島内最長を誇る幡鉾川に合流する場所に位置し ます。 遺跡からは海を望むことはできませんが、 幡鉾 川を東に約1キロメートル下流に向かうとそこには 「内海湾 (うちめわん)」 が広がっています。
原の辻遺跡は、 標高 10m前後の平野に多重の区画溝を掘り巡らした大規模環濠集落で、日本最古の船着き場をはじめ、祭儀場や大型の竪穴式住居など一支国の王都を物語る遺構が検出されており、 日本最多の数を誇る搬入土器や銅鏃、数多くの交易品が発見されています。
交易を通じて様々なものを中国大陸や朝鮮半島から入手し、列島各地に交易品を供給する海上の対外交流拠点であったことが判明しています。
交易を目的とした渡来人や倭人が各地から集まり、対外交易が行われる交流拠点として存在し、東アジア交易において重要な役割を果たしていたことがわかる
国内を代表する遺跡です。 |
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発掘された原の辻遺跡!
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国重要文化財
原の辻遺跡出土
代表資料
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国重要文化財 原の辻遺跡出土代表資料
原の辻遺跡からは、国内各地の資料だけでなく、 中国大陸や朝鮮半島からも様々な資料が運び込まれました。
遺跡には渡来人によってモノだけでなく、 技術や文化もいち早く伝わりました。 |
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船着き場が物語る最新技術
原の辻遺跡の船着き場は、 弥生時代中期初頭 〔今か ら約2200年前~2100年前〕 に築造された日本 最古の発見例です。 船着き場の突堤 (とってい)
は、 何重にもわたる版築を重ねており、 底面には樹皮を敷き詰め一定の水分を保つための工夫や崩落を防ぐために側面に人頭大の礫石を積み重ねているのが特徴です。
また、底面付近には土の流出を防ぐために矢板を 打って土留めしている点など随所に最先端の技術 「敷粗朶工法 (しきそだこうほう)」 が用いられていることからも、
渡来人が船着き場の建設に大きな影響を与えていることを窺い知ることができます。
もっと詳しく知りたい人は?
壱岐市立一支国博物館
長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触 515-1
TEL: 0956-64-3830 |
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船着き場が物語る最新技術
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中国最先端の技術 「敷粗朶工法」 が採用された船着き場跡
(写真は復元模型イメージ) |
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壱岐市立一支国博物館 |
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祝 Special Historic Site Fukui Cave
特別史跡
福井洞窟 EXHIBITION |
祝 特別史跡 福井洞窟
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特別史跡 福井洞窟
~旧石器文化の出口、 縄文文化の入口~
EXHIBITION OF EXCAVATIONS IN THE NAGASAKI PREFECTURE
洞窟の規模は、間口16.4m、庇高4.7m、 奥行5.5mで市域でも大きな洞窟遺跡。
中央には福井稲荷神社の祠が建つ。 祠の横の地面の色が変わっているところが発掘調査区。 |
特別史跡 福井洞窟
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発掘場所
福井稲荷横
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福井洞窟はココがスペシャル!
福井洞窟は「気候変動が著しい後期旧石器時代から縄 文時代への文化的変遷を連続的に知ることができる洞窟 遺跡」としての極めて重要な価値があります。 福井洞窟 は64件目の特別史跡です。 日本の特別史跡で、旧石器 時代まで遡るのは全国初。 つまり、国内最古の特別史跡 です。 |
福井洞窟はココがスペシャル!
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福井洞窟の位置
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3250
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発掘された福井洞窟!?
福井洞窟は、 日本列島の西端の長崎県佐世保市に所在し、昭和30年代に日本考古学協会により発掘調 査が行われました。
調査によって、 旧石器時代から 縄文時代の移り変わりを示し、 昭和 53 年 (1978)に 国の史跡に指定されました。
半世紀後、 平成の再発掘調査によって、 後期旧石器時代終末期から縄文時代早期 (約1万9000年前~1万年前)の狩猟キャンプを幾層にも確認しました。
これにより旧石器時代の石器の変遷とともに、 初めて土器が出現する過程が明らかとなりました。
また、 そして、 6mに 及ぶ洞窟内の堆積が長い年月の中で、いかにして形成されたのかということもわかりました。 こうした地層の重なりによって、
9千年以上にわたる道具を作る技術の移り変わりだけでなく、 環境変化が著しい旧石器時代から縄文時代の移行期における人々の生活の様子が分かったのです。
この時期の気候変動は地球規模のものであり、 福井洞窟が明らかにした 成果は、 まさに世界に誇るべきものです。 |
発掘された福井洞窟!?
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出土品が物語る福井洞窟
6mもの堆積の中に旧石器時代終末期から縄文時代 草創期の8時期にわたる人類の痕跡が確認されています。 また、縄文時代草創期の地層からは最古級の土器が発見され、 縄文時代の始まりを知るうえでも 重要な資料が発見されています。
もっと詳しく知りたい人は?
福井洞窟ミュージアム
〒859-6326 長崎県佐世保市吉井町立石 473 番地
TEL: 0956-64-3830 |
出土品が物語る福井洞窟
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もっと詳しく知りたい人は?
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第1トレンチ出土遺物 引用福井洞窟パンフレット
縄文
時代 |
1,3000年前 |
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2層 |
縄文土器と細石刃が同じ地層から出土!
2層が爪形文
3層が隆起線文と、土器の文様も変化 |
➀細石刃
②細石刃核
③爪形文土器
④隆起線文土器
⑤スクレイパー
⑥小石刃
⑦小石刃核
⑧石錐(いしきり)
⑨剥片
⑩石核
⑪黒曜石
⑫安山岩 |
| 3層 |
旧石器
時代 |
1,6000年前
1,7000年前
1,8000年前
1,9000年前 |
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4層 |
4層以下には土器がない!
形のととのった石槍やスクレイパーが作られる |
7-9
層 |
上下の層とは全く違う石器が出土。
細石刃文化のなかで細石刃を作らない集団!? (※この集団は何者?) |
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12層 |
炉跡を発見!炉の周りで300点の石器を確認。 石器づくりをしていた。 |
| 13層 |
炉跡や石敷を発見!
細石刃の出現時期。
幅広の細石刃が特徴的 |
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14,
15
層 |
主に安山岩から石器を作る。 数点の黒曜石の剥片を確認!
年代ははっきりしないけど、細石刃文化とは明らかに違う集団。
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※引用文献「 福井洞窟パンフレット」には 詳細な内容が記述されています。是非御覧下さることをお勧めいたします。
※考察 細石刃文化人と非細石刃文化人
細石刃文化人が流入してくる中で、非細石刃文化人が別集団で暮らしていた。そして、長い間、交流はなかったようです。
きっと細石刃文化人は危険で、 身体語での交流さえ危ぶまれたのかもしれません。
この細石刃文化人たちは、中国大陸から渡って来た、円錐形・半円錐形の細石刃核を作る集団でした。
彼らの活動は非常に活発で、野岳(長崎県大村市)―休場(静岡県沼津市)型と呼ばれるように、広範囲をと言っても、中国大陸から来ること自体
広範囲の移動であり、道もない大した足袋もない時代にやって来たのだから、食糧資源を求めて大移動するのは当然かもしれない。
このようにして列島の広範囲に拡散した中国大陸型細石刃文化ですが、やはり、氷河期の終わりによって大型動物の絶滅に伴い食糧資源を失った
くさび型細石刃文化人が、その後に、シベリアから南下してきました。彼らは列島を日本海側から南下し、日本海側に橋頭保を築き、殖民して
南下し、植民地から更に太平洋側への進出をはかりました。
私の知るところ、印象では、大変危険な集団で、在地縄文人を駆逐しながら進出していきました。特に矢出川付近では北と西の細石刃が入り混じって
出土することから、戦闘行為も行なわれたのではないかと想像します。第一に、彼らが平和的なら、北方細石人が来ても在地の石器が混在するはず。
しかし、その頃にはもう非効率になった細石刃(を無理やり使う)だけに代わることから、在地民抹殺か放逐か、又は在地民が逃げ出した以外にない。
非常に凶暴な集団だったことは間違いなく、それは、西から九州にやって来た集団も同じではなかったか。だから
旧来の石器を使う先住民と、新型剥片石器を装着した大形狩猟具の新人とは別集団のまま存在し続けたのではないだろうか。
やがて、細石刃文化は破綻し、在地系石器と混住することになる。
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特別史跡 金田城跡
~謎の7世紀、 国防の最前線~
石塁の総延長は約2.6km、 最も高い石垣は6.7m(三ノ城戸) あり、 残存する石塁の最大延長は49.3m と、 比較的よく遺っています。 |
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金田城跡とは AIによる概要
特別史跡 金田城跡(かなたのきあと)は、長崎県対馬市美津島町の城山に位置する、7世紀(667年)に築かれた古代山城跡です。
白村江の戦いで敗れた大和朝廷が、唐・新羅の侵攻に備えて築いた国境の防衛拠点であり、防人(さきもり)が配置されました。
特徴と概要
・構造: 自然の地形を活かした山城で、山の稜線に沿って築かれた総延長約2.2kmの石塁(城壁)が残っています。
・歴史的価値: 「日本書紀」にも記述がある、古代の国防システムを伝える極めて貴重な遺跡として、国の特別史跡に指定されています。
「天空の城」: 浅茅湾(あそうわん)を見下ろす標高276mの城山山頂付近にあり、海に突き出た山全体が要塞となっているため、「天空の城」として知られています。
・二重の要塞: 1300年前の防人の石垣に加え、明治・大正時代には日露戦争に備えた旧日本陸軍の砲台が設置されており、古代と近代の要塞が並存する珍しい場所です。
・評価: 2017年に「続日本100名城」に選定、2019年にはNHK「最強の城」スペシャルで「最強の城」に選ばれました。
現在はハイキングコースとして整備されており、美しい海景色とともに歴史の息吹を感じられるスポットです。 |
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金田城跡はココがスゴイ!
斉明天皇6年(660) 白村江の戦いの後、 唐・新羅の日本侵攻を防ぐため西国防衛の最北端に築かれた古代山城で、 その重要性と良好な遺構の遺存状況から昭和57年(1982)
に特別史跡に指定されました。
おすすめアクセス
対馬空港→対馬博物館
車 約20分 厳原方面に向かい、 厳原郵便局の信号を右折後、 坂道に右折
バス 約35分 厳原行・厳原バス停下車、徒歩3分
厳原港→対馬博物館
車 約3分 県道を比田勝方面へ。 厳原郵便局の信号を左折後、 坂道に右折
バス 約6分 比田勝行・厳原港国内ターミナルまたは桟橋バス停乗車→厳原バス停下車、 徒歩3分
徒歩 約15分
比田勝港→対馬博物館
バス 約2時間30分 厳原行 厳原バス停下車、徒歩3分 |
金田城跡はココがスゴイ! |
金田城跡の位置 |
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発掘された金田城跡!?
金田城跡は、対馬市美津島町黒瀬にある浅茅湾に突き出した半島、城山 (標高276メートル) に築かれた朝鮮式山城です。
奈良時代に朝廷が編纂した歴史書『日本書紀』にその名が記されています。 斉明天皇6年 (660)、 当時の倭国と友好関係にあった朝鮮半島南西部の百済が、唐に攻められ滅亡しました。
天智天皇2年 (663)、 朝鮮半島南西部で起こった白村江の戦いで、 唐・新羅連合軍に敗れた百済と連合を組んでいた倭 (大和朝廷)は、 翌年に筑紫・壱岐・対馬に防人と烽を設置しました。
さらに、 筑紫の水城に続き、九州から瀬戸内海に至る各地に防衛のための拠点を築いていきますが、その一つが 金田城です。
江戸時代から、 その所在地について議論があり、大正期における後藤守一の踏査や昭和28年 (1953)の東亜考古学会における調査なども行われましたが、城壁や城戸、水門など外郭を対象にしたもので、 城内については長く行われませんでした。 平成5年になり、史跡の保存活用を目的として美津島町による発掘調査が始められ、平成30年度に調査と第1期整備を終えました。 この平成期の発掘調査により、金田城跡の構造が明らかにされてきました。 |
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出土品が物語る金田城跡
これまでに門礎石や敷石、石塁、土塁、階段、掘立柱建物跡などが発見され、城の内部構造や特徴、ほかの古代山城との違いがわかってきました。
また、 遺物として7世 紀第3四半期から第4四半期に属する高杯、 甕、 壺、提瓶 など各種須恵器、土師器の甕、 玄界灘式製塩土器、新羅系陶質土器の壺、 フイゴの羽口、 るつぼ片、砥石、 温石、 鉄滓などが出土しており、 防人の生活をうかがい知ることができます。 |
出土品が物語る金田城跡
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金田城跡出土遺物
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もっと詳しく知りたい人は?
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対馬博物館
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もっと詳しく知りたい人は?
対馬博物館
〒817-0021長崎県対馬市厳原町今屋敷668番地2
対馬博物館公式WEBサイト https://tsushimamuseum.jp/
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TEL: 0920-53-5100 FAX:0920-53-5111 |
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3400日本の特別史跡
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日本の特別史跡
昭和24年(1949)1月、法隆寺金堂で火災がおこり、金堂の壁画が焼損するという出来事がありました。 その後すぐに文化財を保護する法律がつくられます。文化財保護法です。 戦前には、「国宝 保存法」や「史蹟名勝天然記念物保存法」などの法律がありました。文化財保護法はそれらを統合 する法律です。
現在日本の文化財保護法制の特徴のひとつは、文化財を2段階で指定・保護するということです。 古文書や仏像、建造物などの有形文化財のうち、重要なものは重要文化財に指定され、そのうち「た ぐいない国民の宝たるもの」が国宝に指定されます。記念物には、遺跡のほか名勝地や動物・植物・ 地質鉱物などが含まれます。 そして下表のように、遺跡のうち重要なものが史跡に指定され、そのうち 「学術上の価値が特に高く、我が国文化の象徴たるもの」が特別史跡に指定されます。
史跡は現在、全国で1,795件あり、そのうちの62件が特別史跡に指定されています (平成29年11月1日現在)。 千葉県千葉市の加曽利貝塚が平成29年10月13日、62件目の特別史跡となりま した。
ここで紹介する特別史跡は16件です。今回取り上げることができなかった特別史跡のなかには、
各地の国分寺跡、臼杵や大谷の磨崖仏、上野三碑、金閣寺や銀閣寺などの苑池などがあります。
いずれも教科書にも出てくる著名なものばかりです。 まだほかにも「我が国文化の象徴」として保存と活用を図っていかなければならない史跡があるにちがいありません。 史跡を周辺の環境とともに 良好な形で後世に伝えていかなければなりません。 特別史跡は、学術的価値が特に高いものです。 その価値を私たちは広く伝えていかなければならないと考えています。 |
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日本の特別史跡
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記念物の種類
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史跡の種類別
時代別指定件数
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特別史跡 五稜郭
―箱館戦争の舞台となった、西洋式の星形城郭―
幕末に江戸幕府が、 西洋式築城法を用いて造営した箱館奉行所の施設です。 開国に伴い箱館を開港することになった幕府は、当初、箱館山麓に奉行所を設置しましたが、
防備上の必要からやや内陸の亀田に移転を決めました。 工事には7年を費やし、元治元年(1864)に完成して、新奉行所がこの地に置かれました。
五稜郭の設計者は蘭学者の武田斐三郎成章で、ヨーロッパの稜堡式城塞が参考にされました。 周囲に石垣積みの堀を構え、五つの突角を有する特徴的な形態の郭で、
大手側の堀の外側に半月堡 (馬出し塁:塁はいしがきのこと、攻撃の足場を意味する) が設けてあります。
明治元年(1868)、奉行所は新政府に引き渡されましたが、同年10月に本武揚ら旧幕府脱走軍が五稜郭を占拠し、翌年5月に新政府軍の総攻撃により降伏するまでの間、
箱館戦争の舞台となりました。
アクセス
車 :JR「函館駅」・函館空港から約15分
電車:JR「函館駅」から市電「湯の川」行き 「五稜郭公園入口」下車、徒歩15分
詳しく知りたい人は···
箱館奉行所
北海道函館市五稜郭町44番3号 電話: 0138-51-2864 |
特別史跡 五稜郭
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空から見た五稜郭跡
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復元された箱館奉行所
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石垣
(写真提供:函館市教育委員会)
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特別史跡 中尊寺境内・
特別史跡 毛越寺境内附鎮守社跡・
特別史跡 無量光院跡 (岩手県西磐井郡平泉町)
―奥州藤原氏三代の栄華、仏国土の世界―
平安時代末期、東北地方一帯を治めた奥州藤原氏三代の遺跡です。
中尊寺境内は初代藤原清衡が造営したもので、国宝の金色堂 (天治元年<1124>建立)や重要文化財の経等が遺存しています。
毛越寺境内は二代藤原基衡が造営したもので、金堂円隆寺跡を中心に主要伽藍が並び、南に中島に架かる橋跡、立石、荒磯の石組等が残る「大泉が池」が広がっています。 東には観自在王院が接し、さらに8か所の飛地指定地があります。
無量光院跡は三代秀街(ひでひら)が造営した伽藍で、宇治の平等院を模したと「吾妻鏡」に書かれています。これらは世界文化遺産「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び
考古学的遺跡群 (平成23年記載)の構成資産です。
アクセス
車 :東北自動車道「平泉前沢IC」から約5分~10分
電車:JR「平泉駅」よりバスで、それぞれ「中尊寺」「毛越寺」「無量光」下車すぐ
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中尊寺
岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202 電話:0191-48-2211(代)
毛越寺 宝物館
岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58 電話:0191-48-2331(代)
平泉文化遺産センター
岩手県西磐井郡平泉町平泉字花立44 電話:0191-48-4012
(写真提供:川嶋印刷株式会社<中尊寺・毛越寺>、平泉町教育委員会<無量光院跡>) |
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特別史跡及び特別天然記念物
日光杉並木街道附並木寄進碑(栃木県日光市・鹿沼市)
―我が国唯一の特別史跡、特別天然記念物の重複指定―
日光東照宮への参詣道として江戸時代初期に設けられた街道で、並木敷が特別史跡及び特別天然記念物に指定され ています。旧日光街道と旧日光道中壬生通り(通称旧例幣使街道)、旧会津西街道の3街道 (いずれも現国道)からなる総延長約37kmの街道で、東照宮の造営に従事した松平正論が寛永2年(1625)頃から杉の植栽を開始しました。そして、慶安元年(1648) 東照宮に寄進したことを記す 並木寄進碑が建てられました。並木は日光奉行が管理していましたが、明治維新後国有となり、明治38年(1905) 並木杉のみが東照宮の所有となりました。
並木としての形態がよく整い、その眺めは訪れる人々を圧倒します。
アクセス
車 :日光宇都宮道路今市IC」から約5分
電車: 東武日光線「上今市駅」下車すぐ(杉並木公園
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歴史民俗資料館・二宮記念館
栃木県日光市今市304-1
電話: 0288-25-7333 (写真提供:栃木県教育委員会) |
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日光杉並木街道附並木寄進碑 |
並木ホテル |
日光杉並木街道
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特別史跡 加曽利貝塚 (千葉県千葉市)
―国内最大級の貝塚、遺跡の保存・整備・活用のパイオニア―
縄文時代中期 (約 5,000~4,000年前) の直径140mの環状の北貝塚と、縄文時代後期 (約4,000~3,000年前)の長径190mの馬蹄形の南貝塚からなる、縄文時代を代表する国内最大級の集落遺跡です。
明治20年(1887) に学界に紹介されて以降、出土した縄文土器や埋葬犬をはじめ、貝塚に関する調査研究について常に注目を集めてきました。 そして、周辺に宅地開発が進んだことをきっかけに昭和38年には遺跡保存の期待が全国的に高まり、昭和46年には北貝塚が、 昭和52年には南貝塚が史跡に指定されました。
昭和41年に 開館した加曽利貝塚博物館では、 市民参加型の埋蔵文化財の活用事業をいち早く実践 して全国へ情報発信し、中学や高校の教科書にも写真が掲載されるなど知名度の極めて高い遺跡です。 現在、貝層の断面を観察できる施設や復元された竪穴建物が整備され、遺跡全体を自由に散策することができます。
アクセス
車: 京葉道路「貝塚IC」から約15分
電車:JR「千葉駅」東口より京成バス 「御成台車庫(市営霊園経由)」行き「桜木町」下車、徒歩約15分、
又は千葉モノレール・千城台方面行き「桜木」駅下車、徒歩約15分
詳しく知りたい人は···
千葉市立加曽利貝塚博物館
千葉県千葉市若葉区桜木8丁目33番1号
電話:043-231-0129
(写真提供:千葉市教育委員会) |
加曽利貝塚 |
空から見た加曽利貝塚
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南貝塚の貝層断面
加曽利E式土器
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特別史跡 一乘谷朝倉氏遺跡(福井県福井市)
―戦国の雄 朝倉一族の夢の跡―
越前国の戦国大名朝倉氏が五代103年間にわたって築き上げた城館と城下町の遺跡です。 京や奈良の文化人がもたらした最先端の文化がこの地で花開き、北陸の小京都とも呼ばれるほどの繁栄をみせました。 しかし、朝倉氏は天正元年(1573) 織田信長との戦いに敗れ城下町は焼失し、町の かたちをほぼそのまま残して田畑の下に埋もれました。
昭和42年から始められた発掘調査によって、一乗谷は南北に城戸 (門)を設け、その間の長さ約1.7km の「城戸ノ内」に、 朝倉館をはじめ、 侍屋敷、 寺院、 職人や商人の町屋が計画的に配置されていたことが分かりました。
また、山麓部には庭園を伴う複数の館が、周辺の山には城砦や見張台が築かれていました。 谷全体を囲む広大 な要塞群の中に、都の文化漂う豪華な館や、 活気あふれる
町が広がっていたのです。
アクセス
車 : 北陸自動車道「福井IC」から約10分
電車:JR「一乗谷駅」下車 徒歩約20分
パス:JR「福井駅」から京福バス「浄教寺・鹿又」行き「復原町並」 下車すぐ
詳しく知りたい人は···
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館 福井県福井市安波賀町4-10
電話:0776-41-2301
(写真提供: 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館) |
一乘谷朝倉氏遺跡
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空から見た一乗谷  |
朝倉館跡
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湯殿跡庭園
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特別史跡 登呂遺跡 (静岡県静岡市)
―再現された日本の農村の原風景
日本文化のルーツを知る―
弥生時代を特徴づける水田と平地建物、倉庫からなる遺跡です。敗戦直後の暗い日本の社会にあって、「日本の農村の原風景」を目の当たりにすることができ、日本国民に大いに勇気を与えた遺跡です。昭和27年3月に史跡指定され、同年11月に「庶民の正倉院」との評価を受け特別史跡になりました。
その整備風景は教科書にも載る著名な遺跡です。
半世紀が経ち、再調査によって、村は弥生時代後期前葉 (1世紀)~古墳時代前期 (4世紀) と長期に営まれ、 多くの平地建物と 掘立柱建物を確認し、後者は高床倉庫と祭祀施設からなっていることが分かりました。
弥生時代の村の構造が分かる点で重要です。
平成23年までに、建物と水田跡 が整備復元され、 平成22年には 博物館もリニューアルされました。 ここを訪れると、弥生時代の人々 の暮らしを体験することができま
す。
アクセス
車:東名高速道路 「静岡IC」から約10分
バス:JR「静岡駅」南口から「登呂遺跡」行きバス終点下車すぐ
詳しく知りたい人は···
静岡市立登呂博物館
静岡市駿河区登呂5丁目10番5号 電話: 054-285-0476
(写真提供:静岡市立登呂博物館) |
登呂遺跡 |
復元された建物群
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戦後の登呂発掘
復元された祭殿
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特別史 姫路城跡 (兵庫県姫路市)
―近世城郭の極致、圧倒的な白亜の殿堂―
姫路市中心部の標高約46mの姫山一帯に築かれた平山城です。 戦国時代、 織田信長の中国攻略のなかで羽柴秀吉が拠点として整備し、関ヶ原の戦いの後は、池田輝政が播磨国52万石の大名となって入城、8年の歳 月をかけて大改修を行い、現在の姿になりました。
内堀に囲まれた内郭は、 本丸・二 の丸・三の丸西の丸からなり、 本丸に至る通路は迷路のように複雑です。 本丸には5層7階の大天守が高く聳え、その周りに3棟の小天守が井桁状に建ち、
それらは4棟の渡槽で繋がっています。 その外、 城内には渡櫓、櫓門、土塀などが多数残り、これらは国宝や重要文化財になっています。 白漆喰の総塗籠の建物群が呈する白亜の外観は壮大 優雅で、 「白鷺城」 の別名に恥じません。
我が国近世城郭の極致と言えます。 世界文化遺産 (平成5年記載) となっています。
アクセス
車:山陽自動車道 「姫路東ICから約15分
電車:JR「姫路駅」 より徒歩20分
詳しく知りたい人は···
姫路市立城郭研究室
兵庫県姫路市本町68番地258
電話:079-289-4877
(写真提供: 姫路市教育委員会) |
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姫路城 |
姫路城
(大天守 小天守群)
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空から見た姫路城
(大天守・西の丸)
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特別史跡 平城宮跡 (奈良県奈良市)
―華麗な天平文化の舞台、地下の正倉院とも―
奈良時代の日本の首都「平城京」の北端部にされた宮殿の遺跡です。 元明天皇の和銅3年 (710) から桓武天皇の延暦3年(784) までの約70年間、八代
の天皇の宮となり、天平文化繁栄の舞台となりました。宮の規模は約1km四方の区画とその東側の張り出し部 (東院)からなり、正門である朱雀門をはじめとする宮城門が開いていました。
天皇が儀式や政務を執り行った大極殿は、 奈良時代前半は中央区に、 同後半は東区に建てられ、政務や饗宴の場となった朝堂 院は中央区・東区双方にあり、
その周囲には式部省や兵部 省等の曹司群が置かれまし た。 東院では庭園が見つかっています。 多数の遺物が出土し、 特に木簡は当時の生の文字 史料として貴重です。
世界文化遺産 「古都奈良の文化財」 (平 成10年記載) の構成資産の一つです。
アクセス
車:第二阪奈道路 「宝来IC」から約10分
電車:近鉄「大和西大寺駅」から徒歩約10分
詳しく知りたい人は···
奈良文化財研究所 平城宮跡資料館
奈良県奈良市佐紀町
電話:0742-30-6753
(写真提供:奈良文化財研究所) |
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特別史跡 石舞台古墳 (奈良県高市郡明日香村)
―飛鳥を支配した 豪族の権勢を示す巨大石室―
田園風景が広がる明日香村島庄の地にあって異彩を放つ巨石群は、石舞台古墳の横穴式石室です。 石舞台古墳は7世紀初めに築造された方墳で、墳丘盛土が後世に失われ石室がむき出しになったものが、現在の姿であると考えられます。
昭和初期の調査によって古墳の形が一辺約50m の方形と判明し、 日本最大級の横穴式石室を備えた古墳として昭和10年に史跡に指定されました。
昭和27年には特別史跡に指定され、整備工事に伴う発掘調査で二段築成の方墳と推定されています。石室は30数個の巨石からなり、露出した天井石の大きさが傑出しています。 全長19.1m、玄室の高さ4.7m、 玄室に導く羨道も2.4mの高さを誇ります。 その規模は破格であり、古代国家形成の舞台、飛鳥を支配した豪族の権勢を偲ばせるものです。
アクセス
車:南阪奈道路「葛城IC」から約30分
電車: 近鉄 「橿原神宮前駅」東口又は「飛鳥駅」から、 周遊バス「石 舞台」下車すぐ
詳しく知りたい人は···
一般財団法人明日香村地域振興公社
奈良県高市郡明日香村岡1220
電話:0744-54-9200-4577
(写真提供:明日香村教育委員会) |
石舞台古墳  |
露出した横穴式石室
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玄室内部
玄室に至る通路(羨道)
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特別史跡 旧閑谷学校附椿山・石門・津田永忠宅跡及び黄葉亭 (岡山県備前市)
―備前焼瓦がまぶしい日本最古の藩営庶民学校―
寛文10年(1670)、岡山藩主池田光政が家臣の津田永忠に命じて庶民の子弟教育のために創設した閑谷学校全景石塀と門学校です。 元禄14年(1701) に備前焼の瓦を葺い た建物と校内を囲った石塀に象徴される現在の外観となりました。
中央の一番高い所に孔子を祀る聖廟を配し、その東に光政を祀る閑谷神社、西に は儒学の講義などが行われた講堂があります。 講堂の周囲には藩主や庶民が学んだ建物や、
文庫等 が並びます。 これらの建物の西には生徒たちの寄宿舎が ありました。 この講堂と寄宿舎の間には人工の火除山が あり、 寄宿舎から講堂に火が及ぶのを防ぎました。
建物群の南には中国古典に倣った泮池が残っています。 また、学校周囲には、光政の遺髪や爪が納められた一の門である岩前、津田永忠宅跡、 閑谷 の生徒や儒者らの憩いの茶室である黄葉亭があり、それらは附指定されました。
アクセス
車:山陽自動車道「和気IC」から約5分
電車:JR「吉永駅」又はJR「備前片上駅」からタクシー又は 備前市営バス「閑谷学校」下車すぐ
詳しく知りたい人は···
閑谷学校資料館
岡山県備前市閑谷780 電話: 0869-67-0009
(写真提供:岡山県教育委員会) |
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大宰府跡は、 博多湾から内陸約14kmに位置する、 古代 の九州地方を統括した役所跡です。 7世紀後半から12世 紀初めまで機能し、 奈良にあった平城宮に対して「遠の朝廷」と呼ばれ、吉備真備や菅原道真もここで過ごしました。
奈良時代初期の政庁は南北215m、東西119mの規模を誇ります。 南約1kmには外国人使節をもてなした 客館跡もあります。 この大宰府を守るため、 白村江の 戦いの後の天智3年(664) 水城が造られました。 土塁 は基底部の幅80m、 高さ10m、
長さ 1.2km で、 博多湾側 に60mの濠が造られました。 大宰府の背後には天智4年 築城の大野城があります。 総延長約8kmの土塁と石垣が
あり、 約70棟の礎石建物跡が見つかっています。 中でも北の城壁である百間石垣は壮観です。 |
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アクセス
大宰府跡・大野城跡・水城跡
車: 九州自動車道「太宰府IC」から約5分~20分
大宰府跡
電車:西鉄 「都府楼前駅」下車、徒歩15分
水城跡
電車:JR 「水城駅」下車すぐ。 又は西鉄「下大利駅」下車、徒歩5分
詳しく知りたい人は···
九州歴史資料館
福岡県小郡市三沢5208-3
電話:0942-75-9575
(写真提供:九州歴史資料館) |
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大宰府・大野城・水城跡
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空から見た大野城跡と水城跡
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大宰府遠景 |
大野城跡 百間石垣
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特別史跡 西都原古墳群
―古墳時代研究史を飾る日本最大級の大古墳群― (宮崎県西都市)
九州最大の前方後円墳である女挟穂塚古墳 (墳長 176.3m) と日本最大の帆立貝形前方後円墳である男挟 蒙古墳 (墳長176m) (どちらも陵墓参考地:特別史 跡指定地外) を中心に、 大小300基を超える古墳が密集 する、日本最大級の大古墳群です。 大正元年から日本 で初めて本格的な学術調査が行われた古墳群としても 知られています。
32基の前方後円墳、 285基の円墳、 2基の方墳、 さら には横穴墓や南九州独自の墓制である地下式横穴墓が あり、3世紀末から7世紀にかけて様々な古墳が造られ 続けました。この地に大変な勢力を誇った有力者がい たことを物語ります。
現在は公園として整備空から見た西都原古墳群されており、往時からそ
の雄大な姿を残し続ける古墳や当時のままに復元整備 された古墳からは、人々が古墳造りに注ぎ込んだ膨大 なエネルギーを感じ取ることができます。
アクセス
車: 東九州自動車道「西都IC」から約10分
パス:宮崎空港から約70分、 宮交シティから約80分
「西郷」行き「西都バスセンター」下車、タクシーで約10分
*時間帯によっては「考古博物館」まで運行あり
詳しく知りたい人は···
宮崎県立西都原考古博物館
宮崎県西都市大字三宅字西都原西5870番
電話:0983-41-0041
(写真提供:立博物館) |
西都原古墳群 |
空から見た西都原古墳群
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鬼の窟古墳
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女塚古墳 男塚古墳 |
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3460日本の特別史跡
日本の特別史跡 |

●はここで取り上げた史跡 |
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五稜郭跡
毛越寺境内
無量光院跡
中尊寺境内、
日光杉並木街道
加曽利貝塚
一乗谷朝倉市遺跡
登呂遺跡 |
平城宮跡
石舞台古墳
姫路城
旧閑谷学校
水城跡
太宰府跡
大野城跡
西都原古墳群 |
1五稜郭跡
2三内丸山遺跡
3毛越寺境内
附鎮守社跡
4無量光院跡
5中尊寺境内
7大湯環狀列石
8旧弘道
9常陸国分寺跡
10常陸国分尼寺跡 |
11日光杉並木街道
並木寄進碑
12大谷磨崖仏
13多胡牌
14山上碑及古境
15金井沢碑
16加管利貝塚
17小石川後楽園
18旧浜離宮庭園
19江戸城跡
20一乘谷朝倉氏遺跡 |
21尖石石器時代遺跡
22新居開跡
23遠江国分寺跡
24登宮遺跡
25名古屋城跡
26本居宜長旧宅 同宅跡
27安土城跡
28彥根城跡
29鹿苑寺(金閣寺) 30慈照寺(銀閣寺) |
31醍醐寺三宝院庭園
32百濟寺跡
33大坂城跡
34姫路城跡
35山田寺跡
36本藥師寺跡
37平城宮跡
38文殊院西古填
39巣山古墳
40石舞台古填 |
41藤原宮跡
42高松塚古墳
43平城京
左京三条二坊宫跡庭園
44キトラ古填
45岩橋千塚古墳群
46斎尾廃寺跡
47旧閑谷学校
附 椿山,石門,
津田永忠宅
および黄葉亭
48嚴島
49康塾並びに
营茶山旧宅
50讚岐国分寺跡 |
51水城跡
52大宰府跡
53大野城跡
54王塚古填
55基肄(祿)城跡
56名護屋城跡
57吉野ケ里遺跡
58金田城跡
59原の辻遺跡
60熊本城跡
61臼杵磨崖仏
附 日吉塔
嘉応二年在銘五輪塔
承安二年在銘五輪塔
62西都原古墳群 |
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3500佐世保市の重要遺跡
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3510福井洞窟
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西北九州洞窟遺跡調査のはじまり
福井洞窟 長崎県佐世保市
FUKUI Cave
1 発見
「福井洞穴」は1978年(昭和53) 史跡として国の指定を受け、「福井洞窟」となる。そのため、発見当初は福井洞穴、福井岩陰などと称されていた。
指定理由は 「旧石器文化から縄文文化の移行期の様子が明らかとしたこと」であった。
後に、 芹沢長介は福井洞穴を 「文化の橋」 と称している。 この福井洞穴の発見は、 郷土史家 松瀬順一による。
2 発掘
当時の日本考古学会では、 日本文化や日本人の起源を求めて各地で発掘調査を行っている。 その流れは、 1949年の岩宿遺跡の発掘により、旧石器文化の探究へと新たな段階を迎える。
洞窟遺跡の調査は、それまでの日本人の 起源論とともに、 古人骨や縄文土器の起源も目的の一つとして追究されていた。 西北九州綜合調査特別委員会(委員長:
杉原荘介) による発掘調査では、 佐賀県多久市の三年山遺跡、 伊万里市の平沢良遺跡などの調査が行われ、1960年に鎌木義昌・芹沢を中心に多くの研究者が参加して福井洞窟の1次調査が行われることとなる。
1959年3月下旬、鎌木・芹沢は九州各地を探訪する。 九州の旧石器文化を求め一円の調査中、佐世保市産業文化館で「古代文化展」が開催されてい
ることを耳にし、別府から長崎佐世保へと向かう。 佐世保市政五十周年記念事業として1954年に建設された当時九州唯一の歴史資料館であった佐世保市産業文化館では、西北九州の考古資料、とくに旧石器時代の資料が展示されていた。とくに二人は大村市野岳遺跡の細石刃核に魅了され、 井手寿謙を訪ねることとなる。 同行した古田正隆により、福井洞穴を紹介されることとなる。 翌年12月、 再び九州の地を訪れた鎌木 芹沢は、地元公民館で松瀬と合流し、資料を閲覧した後、福井洞穴を訪れる。 表面の土器や石鏃を採集し、「さらに下層には旧石器時代まで遡る公算がつよい」 と確信したという。 |
1発見 2発掘  |
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遺跡遠景 (1964年)
(岡山理科大学博物館学芸員課程提供)
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▼ 発掘調査の様子と
出土状況 (1964年)
(倉敷考古館提供)
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3 調査概要
1次調査 (1960)では第1トレンチを地面から2m弱掘削し、 1層から9層 までの発掘が行われた。
その中で旧石器時代の資料と考えられていた細石器 と土器が同じ地層から出土する画期的成果があげられる。
2次調査として、西北九州綜合調査特別委員会は続く洞穴遺跡調査特別委員会(代表: 八幡一郎)に引き継がれ、文部省(当時)の科学研究費の支援を受け 全国各地で洞窟遺跡の調査がなされていく。
1963年には福井洞窟での2次 調査が行われる。
2次調査で、ついに芹沢も土器と細石器の共伴について確信したという。その頃、 縄文研究の大家 山内清男らの学説と実態との相違 に理解を悩ませていたと想像される。
この調査から、 細石器時代の終わり頃か後半期に土器文化が出現するという考えをもつようになると考えられる。
3次調査として、1964年3月20日から3度目となる発掘調査が行われた。 最下層の基盤までの全容解明が目的であった。 調査は第2トレンチと第3ト レンチで行われている。
通称前者を鎌木トレンチ、後者を芹沢トレンチと呼 んだ。 4月3日の新聞では、第2トレンチが地面から4.5m、 第3トレンチ が50cmほど掘削し、
(おそらく9層の石器について 「瀬戸内技法の石片」 が 出土した様子が報道されている。 4月4日の新聞では、 15層から両面加工石器が出土し、ヨーロッパで見られる前期旧石器時代の「ハンドアックス」に 類似する可能性を示唆している。 |
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一連の調査により、 旧石器文化から縄文文化の包含層を重厚に残していることがわかった。
この旧石器の終わりから縄文時代の幕開けを告げる遺跡として、また最古の旧石器についても今なお続く研究課題として、我々に新たな問いを投げかけ、 光を放ち続ける遺跡が福井洞窟である。
(柳田裕三 伴 祐子) |
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3560直弥岩陰
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福井洞窟に並ぶ洞窟遺跡
直谷岩陰 長崎県佐世保市
NAOYA Rock Sheltere
11959年(昭和34) の発掘
1960年4月29日の日本考古学協会の西北九州綜合調査特別委員会において福井洞窟の調査が計画に盛り込まれた。 同年5月21日に高橋護と間壁忠彦により福井洞窟・置谷岩陰の予備調査が行われ、6月1日東京にて鎌木義昌・ 芹沢長介の協議により、 7月21日から20日間による両遺跡の並行した調査が確定する。
調査の結果、
「直谷上層は
福井2層3層にあたる船底形石核と
4層にあたる半円錐形石核、 細石刃に片面加工の削器、 尖頭器を伴う石器文化に分離される。
下層の小石刃を主とする石器文化は、 福井7層に近似するが、やや薄くととのった形の小石刃が多い。
ここでも細石刃文化に先行して小石刃をもつ石器文化が確認されている。」 (鎌木間壁1965) とされた。
2福井洞窟との関係
倉敷考古館所蔵の資料をみると、確かに
黒曜石製石器には細石刃や細石刃核が多い。
安山岩製石器にはスクレイパー類が多数見られ、 薄手の草創期土 器を伴う資料群である。
こうした出土資料の組成から、 福井洞窟2層と直谷岩陰2層を比定したと推察される。
一方、 直谷岩陰3層の安山岩製尖頭器が 3点、 『長崎県文化財調査報告書第4集」 (1966) に掲載されている。 縦長剝片 素材の分割素材を片面加工し、
側辺調整を行っている。
この素材剝片の利用 は、福井洞窟1次調査における4層出土の安山岩尖頭器の特徴であることから、当時の見解に至ったものと考えられる。 出土資料には、
そのほか野岳
型に類する幅広の細石刃核や細石刃、 福井洞窟7~9層に類する小石刃核や 小石刃もあり、各期にわたって福井洞窟との関係性の強い岩陰遺跡である。
2006年(平成18)から佐世保市による断続的な調査から直谷岩陰の様相も明らかになりつつあり、今後テラス部分の岩陰前提部の調査が進むことで福井15層や岩陰形成についても解明が期待される。
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遺跡遠景 (1960年) (岡山理科大学博物館学芸員課程提供)
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 ▲▶発掘調查の樣子(1960年)
(岡山理科大学博物館学芸員課程提供)
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3周辺遺跡から調査団の足跡を追う
倉敷考古館に所蔵されている西北九州の調査時の資料には、烏帽子岳満場 西方ノ池遺跡 (佐世保市)、遠目遺跡や牟田池 (大村市大野原) や野岳遺跡 (大村市 遠自遺跡や革畠池(樊府市大野原)や野岳遺跡(大村市野岳堤)、 雲仙山麓の展望付近での旧石器時代や縄文時代の資料がみられる。
荷札には 1960 年間壁・高橋採集とある。 おそらく、 烏帽子岳や雲仙などは 古田正隆や井手寿謙から得た情報によるものだろう。 いずれも戦後の開拓地により展望のよい場所で確認されている。
福井洞窟の2次調査に参加した富樫泰時(秋田県) の野帳には、福井洞窟のほかにも、烏帽子分校入口や柚木遺跡 (佐世保市)や東浜遺跡(長崎市)、 唐津市周辺の日の出遺跡、 枝去木遺跡などで表採したとみられる細石刃核やナイフ 形石器の実測図が多く並んでいる。
長崎市は内藤芳篤 (長崎大学) が、 唐津周辺は1次調査に参加していた松岡史による資料提供が関係している。
当時から、 唐津型細石刃核や柳葉形のナイフ形石器など後に型式設定され
る石器群を把握しながら調査に臨んでいたことは大変興味深い。 参加者の一人、冨樫によれば、日中は現場で作業を行い、 夕刻食事の後には、芹沢の写真撮影のために照明持ちを小林達雄
(國學院大學) と行っていたと手記をつづっている (冨樫2022)。 昼夜遺跡を求めて語り合い、新発見にわいていた現場の熱気が伝わってくるようだ。
(柳田裕三伴 祐子) |
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調査区の配置図 |
3周辺遺跡から調査団の足跡を追う
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表採または2層から出土した石器
(倉敷考古館提供)
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3層から出土した石器
(倉敷考古館提供) |
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3600洞窟へGO!
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しまび→佐世保バーガー→平戸八景眼鏡岩→長崎ちゃんぽん→ |
泉福寺洞窟→福井洞窟ミュージアム→
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直谷岩陰→福井洞窟→お魚→
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しまび展覧会情報 |
発掘された日本列島
我が町が誇る遺跡展
-洞窟王国佐世保- |
都市伝説展
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発掘された日本列島
各種イベント
関連ワークショップ
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これ以降の展示は、島瀬美術センターの常設展の一部です。
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4F
4000郷土史体験館
~みて、ふれて、まなぶ~
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| 4001
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4010
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この石はどこから採れるの?
今回展示中の黒曜石は、 どこで採れるの?
下の地図で確かめてみよう!
〇砲台山、針尾
△椎葉川
□腰岳
今回の展示は長崎県や佐賀 県の黒曜石なんだね! |
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4020
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現代の古代人!?
実物資料をさわってみよう!
せっきくん、 ここはどんなコーナーなの?
せっきくん と じょうちゃん
ここは古代人がどのように石器を作っていたのか調べるために 実際に石器を作っている資料なんだよ!
今回の展示資料一覧
➀安山岩 (サヌカイト) を使った石器
②黒曜石 (腰岳産)を使った石器
③石器作りの時に使用する道具
・鹿の角、 クジラの牙→石器の刃の部分を作る
・砂岩 (砂が固まってできた岩)→石器の刃の部分を整える
④アライグマを使って作った矢筒
⑤弓と矢
⑥古代の釣り竿 |
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黒曜石の材料 |
アナグマの毛皮 |
毛皮の裏
人造毛皮でない証明
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石器製作道具 |
鹿角,棍棒,敲き石,
マッコウクジラの歯 |
剥片石器と石器
頁岩製
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| 4030矢と矢筒
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4040土器文様
土器文様の型付け道具は、皆さまが使用するものです。使用後は元の位置に戻してください。
土器の文様をつけてみよう! |
調整と施文
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文様の型付け道具 |
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4041
土器文様
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押型文(楕円)
押型文(山形)
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撚糸文
縄文
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条痕(二枚貝)
条痕(巻き貝)
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削り(擦痕)
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| 4050組み立てパズルとカツオ釣り
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4060弓
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上記4030の短弓に対して、長弓または大弓(だいきゅう)
矢が置いてあるので、きっと威力のある弓が復元させている。 |
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4070チョット前の道具
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チョット前の道具
アイスクリームメーカーではなく手回し洗濯機と洗濯板、蓄音機、手回しミシン(これ持ち運び用)
櫓炬燵、ブリキ製湯たんぽ・陶器製湯たんぽにカイロ |
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4080
手回しミシン |
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電話機とスマートフォン |
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薬研 |
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4090
※小学生の頃から、父の影響下で写真の焼き付け(当時はmonoカラー)をしていた経験では、乾板写真は大変高解像度で、
このカメラも、非常に広範囲に焦点を結ぶことができる素晴らしい写真器でした。
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とうみ (唐箕)
※使用上の注意点
1. 古いので壊れやすくなってます。ハンドルを回すときは、 ゆっくり回して下さい。
2.釘などの金属部分がむき出しになっている箇所があります。 さわらないように注意してください。
3.中が回転しているときに、 手は入れないでください。 |
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とうみ (唐箕)とは・・・?
昔の農業用具の1つ。とうみの上部から、稲の穂の部分を入れ、 ハンドルを回すと、内部で風が起こり、 もみがらや塵(ちり) などの軽い部分が飛ばされ、中身が入っている部分は、下に落 ちる仕組み。
■トーミの仕組み
➀ゴミが混ざった穀物を投入
②風の力で ゴミは飛び出し 軽い穀物 と 重い穀物 に選別できる
「とうみ (唐箕)の仕組み」 株式会社ホクエツより転載
「関ヶ原町歴史民俗学習館より転載」 |
とうみとは |
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※昔は、破壊消化か、 竜吐水か、こんな水鉄砲しかなかったのですね。
きっと、失火したら、丸焼けになったのでしょう。
だから江戸時代の失火に対する刑罰は重罪で、火あぶり、だったかな。
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5F
5000発掘された郷土
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1. 文化のあけぼの
2. 土器の発明
3. 泉福寺洞穴の復元
4. 縄文人の山の生活
5. 縄文人の海辺の生活
6. 弥生文化の波及
7. 地方豪族の出現
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8. 中央文化の波及
9. 武士集団の出現
10. 近世手工業の発展
11. 佐世保市の地形と遺跡
12. 細石器製作工程
13. 佐世保の歴史
14. 埋葬人骨 |
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5001
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ここでできること |
➀発掘体験
②土器パズル
③実験試料展示 |
④弓矢体験
⑤民具資料展示
⑥映像展示 |
考古展示室
発掘された郷土
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福井洞窟
泉福寺洞窟 |
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5002
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貝輪
南海産イモガイの装身具 宮の本遺跡 宮の本町遺跡からはこのほか人骨も出土しています。 |
貝輪 |
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沖縄津賢貝塚で発掘されたイモガイの集積状況
写真提供
うるま市教委 |
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北海道有珠モシリ遺跡で出土したイモガイの腕輪を装着した様子
写真提供
伊達市噴火湾文化研究所 |
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貝輪
南海産イモガイの装身具 宮の本遺跡 |
貝輪
3号人骨装着
南海産イモガイ製 |
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鹿児島県南種子町
広田遺跡ミュージアム
貝輪 |
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5003
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日本考古学史に残る 発掘の歩みがここに!
史跡 福井洞窟
旧石器時代の洞窟遺跡!
遊動する人類が暮らしたこの遺跡に、 世界が注目!
史跡 泉福寺洞窟
日本列島最古級の土器 「豆粒文土器」の発見! |
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質・量ともに洞窟遺跡 日本一のまち
佐世保のルーツが今明かされる。 |
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5004
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展示テーマ
掘り出された郷土の歴史
■展示趣旨
佐世保市は日本の西端部に位置する人口25万人の地方都市です。
昭和20年(1945年)までは軍港として栄え、以後は造船、漁業、 製陶業や石炭産業を中心として発展しました。
江戸時代は旧平戸藩領の一寒村に過ぎず、 郷土の歴史としては平戸や長崎のような豊かな内容ではありません。
ところが、近年の発掘調査によって知られた 数多くの遺跡は、わが国の考古学上大変重要であることが認められています。
長崎県は魏志倭人伝の時代、 大陸文化のかけ橋となり、 近世には南蛮紅毛文化の窓口でありました。 そのうえ、考古学上も日本文化の一中心地であったことを物語り、 私たち郷土の誇りとするものです。
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■考古学研究の沿革
佐世保市の考古学研究は、千葉大学の麻生優 教授による岩下洞穴・下本山岩陰、 泉福寺洞穴 の発掘調査を中心として進められました。
岩下洞穴・下本山岩陰は西北九州における石器時代文化の姿を明らかにし、泉福寺洞穴では 土器発生期の重要な発見が相次ぎました。
また、さきの調査に並行して、 弥生・古墳・古代・中世・近世にわたる遺跡が調査され、その成果によって郷土の歴史が組み立てられました。 |
考古展示室
発掘された郷土 |
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考古学研究の沿革 |
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▲下本山岩陰/弥生人骨 イラスト:早川 和子 |
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※考察 咬合
弥生人骨とされるが、歯の構造は縄文人と同じ、上下が合わさる 、鉗子(かんし)状咬合です。
弥生人は、鋏状(ハサミ)咬合です。
西九州の弥生人は半島人との混血や、縄文系弥生人(弥生時代に生きた縄文人)が多く、このような人々が多く存在したのでしょう。 |
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ここは島瀬博物館の
常設展です |
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1. 文化のあけぼの
2. 土器の発明
3. 泉福寺洞穴の復元
4. 縄文人の山の生活
5. 縄文人の海辺の生活
6. 弥生文化の波及
7. 地方豪族の出現
8. 中央文化の波及
9. 武士集団の出現
10. 近世手工業の発展
11. 佐世保市の地形と遺跡
12. 細石器製作工程
13. 佐世保の歴史
14. 埋葬人骨 |
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5010 1.文化のあけぼの
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5011
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西北九州の旧石器文化
~洞窟と遺跡~
約4万~1万5千年前の旧石器時代は、氷河時代ともよばれる寒い時期にあたります。 そのため、当時の海岸線は、 今よりも100mほど低い場所にありました。
平戸市の堤西牟田(つつみにしむた)遺跡の花粉分析では、モミやツ ガなどの針葉樹が見つかっており、 現在よりも寒い 環境だったことが分かります。生息する動物もオオツノジカやナウマンゾウなどの大型ほ乳動物と考えられ、それらを捕獲するための道具は切れ味鋭い黒曜石などが用いられました。
西北九州には、全国的でも有名な黒曜石原産地が多くあります。 西北九州の旧石器人は、恵まれた資源を最大限に生かし、発達した道具を生み出してきました。
約3万5千~2万年前のナイフ形石器文化期には、大規模遺跡が湿地であるくぼ地に形成され、その後(うしろ)の台地に中小の遺跡が分布します。
一方、約2万~1万5千年前の細石刃文化期には、 大遺跡は洞窟や 岩陰に営まれ、平野や台地上には大きな遺跡がほとんどありません。
つまり、 細石刃文化の出現は、それまでとは異なる文化的変容が生じ、地域集団の行動領域にも変化があったことが想定できます。
集団の行動様式を含めて、集団構成も変質したのではないでしょうか。
それは、当時の人類の最も重要資源である石材 (黒曜石や安山岩) の供給と関係し、 石材によって結びついた集団関係の変化によって、 社会が変わったものと考えられます。
※湿地・窪地の集落遺跡は→細石刃文化人の出現→洞窟・岩陰居住にかわる。 ⇒大陸人が出現し先住人は消え、穴居人が支配した |
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5013ナイフ形石器 板山遺跡 旧石器時代 約30,000-20,000年前
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石器とは何か
石と石器は、 どうちがうの?
これは、簡単なようでむずかしい問題です。 石器とは 『石を 材料にした道具又は道具の一部』 です。 手で直接にぎったり、 木や角の柄に着けて使用したと考えられます。
また道具(ツール)として使われる石器に加えて、材料の石を打ちかいた破片も含めて、「人が加工した石」 を石器といいます。
石器は、 機能や用途や製作技法によって細かく種類(器種)が分けられます。 全ての道具が分かっているわけではなくて、 未知なる石器はまだ多く存在していることでしょう。
発掘された洞窟 遺跡 2016 |
板山遺跡のナイフ形石器
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石器とは何か |
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ナイフ形石器/台形石器
板山遺跡
旧石器時代
約30,000~20,000年前 |
石核/彫器/剥片
板山遺跡
旧石器時代
約30,000-20,000年前 |
ここがポイント
時代と共にナイフ形石器や
台形石器の形が変わる!
大形⇒小形 |
ナイフ形石器/台形石器
板山遺跡
旧石器時代
約25,000~20,000年前
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5014
ナイフ形石器/台形石器
板山遺跡
旧石器時代
約30,000~20,000年前 |
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5015
石核/彫器/剥片
板山遺跡
旧石器時代
約30,000-20,000年前 |
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8016
ナイフ形石器/台形石器
板山遺跡
旧石器時代
約25,000~20,000年前 |
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| 5017
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5018小さな槍先の作り方
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小さな槍先の作り方
根引池遺跡
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1.原石 |
2.粗割り |
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3.薄剥ぎ
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4.仕上げ
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完成 |
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5020 2.土器の発明
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5021
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史跡 泉福寺洞窟 佐世保市瀬戸越1丁目
泉福寺洞窟は、佐世保市中心部を流れる相浦川中流域の左岸、標高89mの砂岩露頭に南側に面して開口しています。 4つの洞窟が横に連なっていて、近くに水が湧くなど、条件にめぐまれています。
昭和44年(1969) に中学生が発見し、麻生優氏を中心とした10年におよぶ発掘調査が行われました。 発掘調査の結果、旧石器時代の終わりから縄文時代の幕開けにかけての文化の移り変わりが、 他地域では見られないような細かな層位によって、鮮明となりました。
特に、「豆粒文土器」 をはじめとして、その後の時代変遷が層位的に解明され、我が国の縄文時代のはじまりを示す遺跡として、
昭和61年(1986) 国の指定をうけることとなりました。
出土した資料5万点以上の石器と土器のうち、 石器1,956点、 土器8個体分が国の重要文化財となっています。
日本最古級の「豆粒文土器」は、土器の文様と中国の漢詩 「登龍門」になぞらえて下川達彌氏によって命名されました。
泉福寺洞窟の発掘調査に携わった当時の学生たちは、 その後、全国各地で第一線の研究者として活躍 るようになります。
激動の時代の流れを登りきった鯉は、まさに龍となったといえるでしょう。 |
泉福寺洞の層位 |
縄文
時代 |
1層 |
弥生時代以降の文化 |
| 2層 |
縄文中期~晩期土器の文化 |
| 3層 |
押型文土器文化 |
| 4層 |
条痕文土器文化 |
| 5層 |
押引文土器文化 |
| 6層 |
爪型文土器文化 |
| 9-7層 |
隆起線文土器文化 |
| 10層 |
豆粒文土器文化 |
| 旧石器 |
12,11層 |
旧石器時代終末の、ナイフ形石器・細石刃文化 |
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細石刃はどうやって使われたのか?
細石刃とは?
細い石の刃と書くように、長さ2~5cm、幅0.5~0.8cmほどのカミソリのような石器のことを「細石刃」と呼びます。 日本では、旧石器時代の終わりごろから縄文時代のはじめごろ
(約2万~1.5万年前)にとても流行しました。
こうした石器は、日本だけでなく現在のロシア、モンゴル、 中国、韓国など 世界各地で同じ時期に使われました。
佐世保地域は、この時期の遺跡が集中する 「メッカ」 と呼べる地域です。
とくに福井洞窟や泉福寺洞窟では土器と細石刃が一緒に出てきた遺跡として、世界的にもよく知られています。
※旧石器の細石刃と縄文の土器が供出とは、旧石器人が土器を作り始めたという意味。
旧石器人が縄文人の文化に触れ、土器作りを学び、縄文人となった、という意味らしい。 |
細石刃はどうやって使われたのか?
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黒曜石で作られた細石刃
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植刃器として使われた細石刃
シベリアでは、トナカイなどの骨で作ったヤリ先の刃として使われたことが分かっています。 このような骨や角などを素材としたヤリ先などに、石の刃を埋め込んだ道具を「植刃器」と呼びます。
シベリアの遺跡では、この植刃器がヤギュウの肩甲骨にささった状態で出土しています。
このことから、細石刃をつかった植刃器は狩りの道具として使われたのだろうと考えられています。
日本の旧石器時代遺跡では、 残念なことに骨や角が残りません。 そのため、日本の細石刃がシベリアと同じように使われたのか、実は現在でも確かなことはわかっていません。しかし、使用方法を探る手がかりがあります。 それが石器の「キズ」をみる 「使用痕分析 (しようこんぶんせき)」 です。 |
植刃器として使われた細石刃
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ヤギュウの肩甲骨にささった植刃器の切先 (左) と植刃器(右)
(左:ココレヴォI遺跡、 右:ボリショイ・ヤコリ遺跡出土)
(木村英明1998 『シベリア旧石器文化』より) |
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細石刃の表面を顕微鏡で見る ―使用痕分析―
細石刃の表面を顕微鏡で拡大してみると、ミクロなキズが見えることがあります。
左の写真は、福井洞窟から出土した細石刃の「キズ」です。 細石刃の刃の部分に沿って平行に、線状のキズが複数本走っているのが分かります。このキズを「線状痕(せんじょうこん)」と呼びます。
線状痕は、ある程度かたいものを切ったり削ったりす るとできます。これが刃の部分だけに見られるという ことは、この部分だけが物体にあたっていることを示 しています。
福井洞窟の細石刃も植刃器として使われた可能性が高いと考えられます。 |
細石刃の表面を顕微鏡で見る
―使用痕分析―
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×200倍
×100倍
×100倍
×100倍 |
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5022
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10層出土遺物 (豆粒文土器段階)
豆粒文土器1個体分 破片22個 泉福寺洞窟第10層
第10次調査で出土した。 口径13cm 高さ24cm の深鉢形土器で、
口縁部と胴部に豆粒状の粘土を張り付ける。
土器の上半部にススが付着しており、 煮たきに使われたことを示している。
世界最古級の土器である。 |
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10層出土遺物
(豆粒文土器段階)
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10層 豆粒文土器 |
豆粒文土器文化層
泉福寺洞窟出土品
重要文化財指定 |
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| 5024細石刃と細石刃核
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| 5026いろいろな石器
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| 5028
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5029石槍
石槍
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※見るからに細く、薄く、鋭利で、動きを封じられた大形動物に
致命的な打撃を与えられる機能が見て取れる。
しかし、その代わり、折れやすいのも事実だろう。
きっと1度の狩猟で使用すると、この尖頭器は寿命を終え、折れて、
次の狩猟までに先端を交換する必要があったのだろう。 |
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5030 3.泉福寺洞窟の復元
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5031層位と出土物
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泉福寺第3洞穴前面の
層位と文化層 |
9層
10層
11層
落盤石 |
平安時代文化層
押型文土器文化層
条痕文土器文化
押引文土器文化
爪形文土器文化層
隆起線文土器文化層
豆粒文土器文化層
基盤 |
やじり
細石器
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泉福寺洞窟
世界で最も古い土器である豆粒文土器が見つかった泉福寺洞窟。
この洞窟で、大昔の人々はどんな生活をしていたのだろうか。
発見された多くの石器や土器などの道具は、ここでさまざまな生活用具を作り使用していた太古の人々の姿を今に伝えてくれています。
この模型から、そんな生活の息吹きを感じとってみて下さい。 |
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5032泉福寺洞窟ジオラマ
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丸木弓を作る |
石を粗割して石器を作る |
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煮炊きする |
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豆粒文土器 |
石囲い炉
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朽ち木や倒した丸木をそのまま燃やした。
短く切り揃える手間はしなかっただろう |
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5034
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●洞窟の生活
洞窟は雨露を防ぐとともに、 夏涼しく冬は暖い環 境が、 天然の住居として石器時代の人々が利用した 要因と思われます。
泉福寺洞窟では洞内に時代とともに移動した炉あ とが数箇所認められ、また石器を作ったあとと見られる多量の石器、 石片が集中した場所がありました。
炉は暖房とともに調理したり、 夜の明かりや道具の加工に用いられました。
最古の土器である豆粒文土器は調理の際に付いた ススが厚く認められ、 煮たきに使われていたことを 物語っています。
また、炉のかたわらでは石器などの道具作りが行なわれていたようです。
洞穴はこのように、 四季の移り変わりにあわせて 木の実採集や狩りの基地であり、休息の場であり、 道具を作る作業場でもありました。
岩下洞穴や下本山岩陰は、さらに埋葬の場としても利用されています。 |
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5035
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下本山岩陰遺跡弥生人のDNAから見えたこと
古人骨に残るDNAの分析は、近年の分子生物学の発展によって可能となり、最近ではネアンデルタール人の遺伝子まで解析できるようになっています。 日本人の起源についても、 これまで100体以上の縄文人や弥生人のミトコンドリアDNAが解析されており、そのデータに基づいて新たな学説も提唱されています。
ただし、DNAは埋葬後に速やかに分解されるので、これまでの研究結果を見ると、4割から7割程度の人骨からしかDNA情報を得ることが出来ていません。 また、分析の成功率は、発掘されてあまり時間のたっていないものの方が良い傾向にあります。
今回の研究では、岩下洞穴の5体と下本山岩陰の2体の人骨のDNA分析を試みましたが、残念ながらミトコンドリアDNAのデータを得ることができたのは、下本山岩陰の1体だけでした。
しかし、この弥生時代相当期の人骨が持つミトコンドリアDNAのタイプは、 全国の縄文人が共通して持つM7aでした。 このタイプは、 現代人ではほぼ日本列島にしか存在せず、また沖縄では人口の20%以上を占めているのに対し、本土日本では7%程度しかいないという特異なもので、
日本には縄文時代以前の古い時代に入ってきたDNAと 考えられているものです。
下本山岩陰人骨は、形態学的な研究から西北九州型弥生人に分類され、九州地方での弥生時代における多様な集団の存在を示す貴重な人骨ですが、DNA分析からも彼らが日本の基層集団に由来するDNAを持っていたことが明らかとなりました。
これは九州における 縄文・弥生移行期の状況をDNAから考える上で重要な示唆を与える結果となりました。
※随分持って回った言い方ですが、下本山岩陰遺跡の弥生人骨は、縄文系でした。 |
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縄文遺跡から出土した人骨の ミトコンドリアDNAタイプ
北海道から沖縄まで、報告のあるすべての地域の縄文人骨からM7aが見いださ れている。
特に九州・沖縄地区では報告例は少ないが、これまで見いだされているタイプはすべてがM7aである。
(注)このミトコンドリアDNAのタイプのことを 専門用語ではハプログループと呼ぶ。
※このDNAタイプは日本人特有で、近隣の中国人や韓国人にはなく、世界唯一の遺伝子型です。 |
縄文遺跡から出土した人骨の ミトコンドリアDNAタイプ
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M7aの分布濃度
(スンダランド発生の 南方系遺伝子。固有小集団が日本にだけ上陸した)
沖縄縄文(伊江島貝塚前期)100%
九州縄文(東名遺跡)
北陸縄文 15%
東北縄文 34%
北海道縄文 7%
N9bの分布は北東アジアを中心に分布する。日本人は7%保有する。 |
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5036岩下洞穴 佐世保市松瀬町
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佐世保市の北部を相浦川中流域にある石盛岳南斜面の砂岩露頭に形成された洞窟遺跡である。広さ17m、奥行最大で7m、 高さ約5mの規模を呈す。
昭和39年(1964年)3月に予備調査で縄文早期の埋葬人骨を発見し、3ヶ年間発掘調査を実施している。
特に、縄文早期の埋葬人骨が27体確認され、墓域としての利用が明らかになった。
大分県の枌(へぎ)洞穴(11体)、 愛媛県の上黒岩岩陰 (28体) 長野県の栃原岩陰 (12体) とならび、 全国有数の大遺跡であることが、 確認されている。
縄文前期の人骨も、4体以上見つかっている。
平成21年から6年かけて国立科学博物館 によって保存修復と科学分析が行われ、 最新の成果が近年明らかとなりつつある。 |
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第二次発掘調査の参加者。
中央に麻生優氏。 |
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第V層からでた遺構と遺物 |
4号人骨
5号人骨
6号人骨
9号人骨 4号人骨
4号人骨
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10号人骨
11号人骨
12号人骨
13号人骨
14号人骨
15号人骨
16号人骨
17号人骨
18号人骨 |
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副葬された石槍
19号人骨
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岩下洞穴の縄文人骨
見どころ
早期と前期の違いに注目!
1.腕の骨
前期人の腕の骨は大きくて頑丈ですが、早期人ではみな華奢でした。生活の仕方に何か変化が起きていたことが伺われます。
2.頭骨の縫合
前期人の1個体(2号)では、縫合の一部が閉じていて、中年以上(老年の○○○もあり)の男性と判定されました。ところが多数○〇早期の人骨は、縫合が閉じているものがなく、若い成人のものばかりのようです。早期人が、短命であった可能性が出てきました。
3.激しい歯の摩耗
早期人は、歯の摩耗が著しいことが知られていました。
岩下洞穴の早期人も同じで、30歳にもならないうちに、歯のかたちがなくなってしまうほど、磨り減っています。
4.身長は低い
骨の長さから推定して早期人の身長は、男性で156cm、女性151cmでした。 |
岩下洞穴の縄文人骨 |
岩下洞窟
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早期人と前期人の違い
| 部位 |
早期人 |
前期人 |
| 腕の骨 |
華奢 |
大きく頑丈 |
| 頭骨の縫合 |
縫合が閉じていない
(若年層の死体=短命) |
縫合が閉じている
(中・高年層の死体) |
| 歯の摩耗 |
摩耗が激しい
(30歳までに歯が消滅) |
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| 身長 |
男156cm女151cm |
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5037縄文早期人の人骨 岩下洞穴
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岩下15号人骨
岩下洞穴Ⅴ層
縄文早期
1万~9千年前
若い成人男性
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残存骨角の部位 |
ここがポイント!! |
縄文早期人は低身長
骨の長さから身長判明
縄文早期人は骨が細く華奢な体! |
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5040 4.縄文人の山の生活
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5041石器
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ナイフ形石器
・台形石器
・細石器 |
岩下洞穴 10層
旧石器時代
約2万~1.5万年前
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縄文時代 |
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5042土器
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条痕文土器
岩下洞穴 9層
縄文草創期末
約1万年前
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石鏃・エンドスクレイパー 岩下洞穴 9層
縄文草創期末
約1万年前
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石鏃,エンドスクレイパー,石槍
岩下洞穴 8層
縄文草創期末
約1万年前
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政所式,無文,押型文
岩下洞穴 6層
縄文早期前半
約1万~9千年前
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石鏃,磨製石鏃,石槍
岩下洞穴 6層
縄文早期前半
約1万~9千年前
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石鏃
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押型文・撚糸文
岩下洞穴 5層
縄文早期前葉
約9千~8千年前
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石鏃,磨製石鏃・石槍
岩下洞穴 5層
縄文早期中葉
約9千~8千年前  |
石鏃,磨製石鏃・石槍
岩下洞穴 5層
縄文早期中葉
約9千~8千年前
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無文土器
5層
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骨製尖頭器 |
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押型文土器
岩下洞穴 4層
縄文早期前葉
約9千~8千年前
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石鏃,磨製石鏃
岩下洞穴 4層
縄文早期中葉
約9千~8千年前 |
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曽畑式,阿高式土器
岩下洞穴 3層
縄文前期~後期
約6千~4千年前 |
剥片鏃,石核(鈴桶技法)
岩下洞穴 3層
縄文前期~後期
約6千~4千年前
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政所式
AI による概要
政所式(まんどころしき)は、主に南九州(鹿児島県周辺)の縄文時代早期前葉〜中葉に見られる土器の型式です。
口縁部にアナダラ属の貝殻を用いた縦位の押捺文(貝殻腹縁文)が特徴で、地文を持たず、厚手で尖底の深鉢が多く、縄文の森のホームページや全国文化財総覧の資料によると、塞ノ神式土器などと共伴して出土する歴史的に重要な土器です。
詳細なポイントは以下の通りです。
・時期: 縄文時代早期前葉〜中葉(約1万〜9,000年前頃)に位置付けられる。
・場所: 主に鹿児島県などの南九州地方で出土。
・特徴:
・紋様: 口縁部にアナダラ属(赤貝など)の貝殻の腹縁を縦に当てて押した紋様(貝殻腹縁文)がある。
・器形: 深鉢形で、底が尖っている(尖底)。
・作り: 厚手で地文がない。
関連土器: 塞ノ神式(さいのかみしき)、吉田式、前平式などと関連する。
この土器型式は、南九州の早期縄文文化の展開を理解する上で重要な基準となるものです。
塞ノ神式土器
AI による概要
塞ノ神(せのかん)式土器は、縄文時代早期後葉に鹿児島県を中心とした南九州で栄えた、平栫(ひらがこい)式と併行する特徴的な土器型式です。底部が平らな平底土器や、表面を丁寧に研磨し赤色顔料を塗布した壺形土器が出土しており、その特徴は九州一円に伝播した。
塞ノ神式土器の特徴と詳細
・時期と地域: 縄文時代早期後葉、鹿児島県周辺(南九州)。
・出土・伝播: 鹿児島県の遺跡(上野原遺跡や石坂上遺跡など)を中心に分布し、早期後葉には九州一円に広まった。
・特徴的な形態:
・平底: 早期の土器として特徴的な、安定した平らな底を持つ。
・赤色顔料: 表面を研磨し、赤色の顔料(丹)を塗布する技術が見られる。
・壺形・深鉢: 煮炊きや貯蔵に適した実用的な壺形や、深鉢形が主となる。
・関連する型式: 平栫式土器と同時期、もしくはその後に位置づけられる早期の土器編年である。
この土器の段階は、南九州においてより洗練された実用的な土器が展開された時期を表しており、のちの縄文文化の基盤となる要素を含んでいる。
曽畑式土器とは
AI による概要
曽畑式土器(黒川洞穴:日置市吹上町) – 鹿児島県上野原縄文の森
曽畑(そばた)式土器は、縄文時代前期(約5000年前)に九州地方を中心に分布した、平行する沈線文様や櫛目(くしめ)文様が特徴的な土器です。朝鮮半島の櫛目文土器との共通性が指摘され、滑石を混入した胎土で光沢があり、丸底の深鉢や浅鉢が多いのが特徴です。
曽畑式土器の主な特徴と詳細
・標式遺跡: 熊本県宇土市の曽畑(そばた)貝塚。
・文様・形状: 口縁部(こうえんぶ)から全体に「沈線文(ちんせんもん)」や「櫛目文(くしめもん)」と呼ばれる、ヘラ状の道具で描かれた平行な線が特徴的。底部は尖った丸底(尖底)が多い。
・胎土: 粘土に滑石(かっせき)を混ぜて作られており、表面は鈍い光沢を放ち、手触りはぬめりがある。
・地域的背景: 縄文時代前期に北九州を中心に展開し、鹿児島などの南九州から朝鮮半島との交流を示す資料としても知られる。
・関連遺物: 九州北西部の結合式釣針や石鋸(せっきょ)が伴出することがあり、大陸との交易や漁労文化との関わりが深い。
この土器の存在は、当時の九州地方が朝鮮半島と活発に交流していたことを物語る貴重な考古資料です。
阿高式土器
AI による概要
阿高式土器(あたかしきどき)は、約5000年前の縄文時代中期に西九州地方を中心に広まった、熊本県熊本市城南町の阿高・黒橋貝塚を代表する土器です。特徴は、太い沈線文(太形凹線文)や、胎土に滑石を混入させる技術で、底部にはクジラの脊椎骨の痕跡が見られるものもあります。
・特徴: 深鉢が多く、縄目文様(縄文)を欠く代わりに、曲線や直線を組み合わせた太い沈線「太形凹線文」を上半部に描く。
・技術: 粘土に滑石の粉を混ぜ、表面にツヤと滑り感がある。底部には回転台としてクジラの脊椎骨を利用した痕跡(あばた状の圧痕)がある。
・分布: 熊本県を中心とした西九州の海岸部・貝塚から多く出土。
・時期: 縄文時代中期後半(約5000年前〜)。
阿高式土器は、当時の九州における漁労文化と、滑石の流通などの広域的な交流を物語る資料となっています。
鈴桶技法
AI による概要
鈴桶(すずおけ)技法は、日本の縄文時代後期から晩期にかけて九州地方で盛行した、黒曜石などから薄く長い石刃を効率的に製作する特有の技術です。佐賀県の鈴桶遺跡に由来し、石核の打撃面を限定して連続的に剥離することで、高い完成度の縦長剥片(石器)を作り出しました。
特徴と概要
・名称と由来: 佐賀県にある「鈴桶遺跡」で多数の石器と石核が発見されたことから名付けられた。
・特徴: 石材の端部を重点的に調整・打撃し、極めて薄く、均一で縦長の石刃(剥片)を連続して剥離する技術。
・時期・地域: 縄文時代後期〜晩期、主に西北九州を中心とする地域。
・目的・用途: 効率的に高品質な石刃を生産する技術。この石刃は、鋸歯(きょし)尖頭器や石鋸などの刺突漁具(組合せ式石銛)の素材として使われた。
・意義: 漁撈(ぎょろう)文化圏の交流や、石器の流通を示す貴重な資料として、研究されている。
この技術により作られた石刃は、九州の縄文文化において高い技術水準と漁撈文化の発展を示しています。 |
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| 5050 |
5051
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佐世保市下本山町 県指定史跡
下本山岩陰遺跡
~縄文人と火山~
下本山岩陰は、海岸近くに位置し、縄文時代前期 (約 6,000年前)、 後期(約4,000年前) の貝塚や土器や石器、 弥生時代の墓と3体の人骨が発見されています。
縄文時代前期に移り変わる頃(約7,200年前) は、気候の温暖化によって海面が上昇し照葉樹林の拡大が進む一方で、 九州本土南端から約40kmの海底にある鬼界カルデラの巨大噴火が発生しています。 この噴火によって発生した鬼界アカホヤテフラ (K-Ah) (降下軽石・ 火砕流堆積物・降下火山灰)のうち、降下火山灰はアカホヤ火山灰と呼ばれ、西南日本周辺から東北地方南部まで広い範囲で降り積 もっています。
当時の人類は、長引く自然災害にどのように対処したのでしょうか・・・。 下本山岩陰では、 アカホヤ火山灰が降灰した後に人類の痕跡がみられます。
下本山岩陰の前面にある 門前遺跡から、 その後の火山活動を恐れて、岩陰近く に生活を移してきたのでしょうか。
岩陰には、岩庇があり、雨や風のほか火山灰を除けるにも都合のよい天然の屋根があります。 自然と共生する生き方を縄文人が語りかけてくるようです。
※鬼界カルデラの巨大噴火は鹿児島県で1m以上長崎県で数十cmとされているが、鹿児島ではもっと降って丘になっているし、長崎ももっとだろ。
例え、強烈な爆風や火砕流から逃れられたとしても、食べ物が灰に埋もれ、動物もやがて餓死して得られなくなる。海の上には軽石が、
海の底には大量の火山灰が泥となって溜り、魚類の棲息を不可能にする。八代海では泥の海を見ることができる。
下本山岩影の人々はどのように暮らしたのか。それとも、僅かな痕跡を残して、やがて食糧を求めて旅立ち、絶滅したのだろうか。 |
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下本山岩陰 |
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約7,300年前の鬼界カルデラの巨大噴火とK-Ahの降灰範囲
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表 岩下洞穴・下本山岩陰・門前遺跡の出土土器人骨の年代K-Ahとの関係
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表 岩下洞穴·下本山岩陰·門前遺跡の出土土器·人骨の年代K-Aの関係
| 新 |
時期 |
年代(calBP) |
土器型式 |
岩下洞穴 |
下本山岩陰 |
門前遺跡 |
火山噴火 |
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6,250~5,500年前 |
曽畑式 |
人骨 |
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6,300~6,200年前 |
西唐津式 |
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人骨 |
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6,650~7,250年前 |
轟B式 |
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前期 |
7,300~7,050年前 |
西之薗式 |
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K-Ah(7,200~7,300年前) |
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7,550~7,250年前 |
轟A式 |
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| 古 |
早期 |
8,000~7,450年前 |
塞ノ神B式 |
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5053石器
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打製石鏃 |
剥片鏃 |
石匙 |
石錐
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石錐
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磨製石斧
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砥石,磨石 |
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5055 5.縄文人の海辺のくらし
※遺跡名が不明だが、展示の状態からも、以下の遺物が、下本山岩陰遺跡出土であると考えられます。
標高16m地点にある同遺跡は、山の民であり、釣針が出土していることから、海の民でもあったようです。(要参照)
更に、弥生時代の箱式石棺から二体の人骨が出ています。
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貝製玉
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貝輪未完成
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貝輪
ブレスレット
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貝輪
ブレスレット
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骨製刺突具
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牙製鎌状具
猪の牙
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5057
※「阿高・坂の下式」ってなんだ? 阿高式でもなく、坂の下式でもなく、両方が合わさっているのか?
しかし、阿高式5000年前、坂の下式4000年前だろ。時代が違うけど折衷式なのか? わかんねーなー!
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5100 6.弥生文化の波及
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弥生時代
約 2,300~1,800年前
弥生時代は、 自然から食べ物を獲得するのではなく、田や畑で自ら作物を生産する時代となります。 そうすると、 相浦谷をはじめ、 点々と各地で集落が現れ始めます。
下本山町の四反田遺跡は、 そうした時代のムラの1つで、この一帯は相浦川によって造られた平地となっていて、水田に適した土地です。 ここに弥生時代前期 (約2,300年前)に水田を開いて米を作る人々による集落が現れました。
弥生時代中期 (約 2,000年前) は集落をもつ遺跡のほか、山間部にも小さな遺跡が分布します。 弥生時代後期 (約 1,800年前)になると、
相浦川下流の門前遺跡が拠点的な遺跡になります。 |
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弥生時代 |
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| 5101
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5110
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高島町
宮の本遺跡
~ブレスレットが示す「貝の道」~
相浦の港外約6kmの海上にある高島には、 縄文時代前期(約7,000年前) から弥生時代後期 (約1,800年前)の遺跡である 「宮の本遺跡」
があり、 これまでに40体もの人骨が発見されています。
3号石棺では左腕に沖縄付近の海でしか採れない、 「イモガイ」で作った貝の腕輪(ブレスレット)を付けた女性の骨が見つかり、 ムラの中で特別な存在であったと考えられています。 |
イモガイの腕輪
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宮の本遺跡のイモガイの腕輪は、イモガイを輪切りにして、さらに縦4個に分割する特殊なものですが、
このタイプの腕輪が北海道の遺跡からも、やはり埋葬された人の骨とともに出土しています。 |
これは5002のコピーです。
宮の本遺跡の女性人骨が身につけていた貝輪と、イモガイをデポしていた津賢貝塚、北海道有珠モシリ遺跡の腕輪の写真です。
南種子町広田遺跡ミュージアムでは、より高度に装飾された貝輪が登場しています。
貝輪 |
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沖縄津賢貝塚で発掘されたイモガイの集積状況
写真提供
うるま市教委 |
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北海道有珠モシリ遺跡で出土したイモガイの腕輪を装着した様子
写真提供
伊達市噴火湾文化研究所 |
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貝輪
南海産イモガイの装身具 宮の本遺跡 |
貝輪
3号人骨装着
南海産イモガイ製 |
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鹿児島県南種子町
広田遺跡ミュージアム
貝輪 |
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5111生活道具 宮の本遺跡
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石錐
~穿孔具~ |
石鏃
伝統的な狩猟具
~狩る石器~ |
磨石
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磨石
木の実等を磨り潰す道具
~調理する石器~ |
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アワビ貝包丁
収穫に使う道具
~刈る石器~ |
石包丁形石器

収穫に使う道具? ~刈る石器~ |
石包丁

収穫に使う道具
~刈る石器~
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5115
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石剣
 剣の形をした祭具?
~祭る石器~ |
石枕
死者の枕
~送る石器~ |
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貝輪
貝輪は縄文時代から弥生時代の装身具の一種です。
アカガイ・ベンケイガイなどの二枚貝の縁を残して加工し、手首に装着しますが環の大きさから子供のころに入れます。
宮の本遺跡弥生人の貝輪例は“成人7体あり" 全て女性で左手首に装着していました。 |
※考察 なぜ7体の人骨が貝輪を?
成人女性7体が全て子供の頃から貝輪をハメていた。巫女の遺体が7人分?
リッチな村で有力者の子弟がみんな貝輪をしていたのか、長期にわたって君臨するはずの巫女の遺体が、7代分も出たのか。
貝交易に関わっていたために、入手しやすく、また、リッチだったのだろうか。
だいたい、遺体7体はていねいに埋葬されていたことから、尋常な地位の女性たちではなかったと理解される。
特別な埋葬だったから今日まで残ることができた。
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| 5120 |
5121土器
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AI による概要
佐世保市宮の本遺跡は、縄文・弥生・平安時代にわたる複合遺跡です。砂丘上に形成された墳墓群を主体とし、この地域における古くからの生活や墓制の変遷を示す貴重な遺跡として知られています。
所在: 長崎県佐世保市高島町
種別: 墓(墳墓)
主な時代: 縄文時代、弥生時代、平安時代
立地: 砂丘上 |
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精製土器
縄文晩期
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突帯文土器
縄文晩期
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粗製土器
縄文晩期 |
甕(弥生前期)
甕(弥生中期)
小型壺(弥生後期)
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5125石器
有孔円礫(おもし?)
石錘(漁具のおもり)
~狩る石器~
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※考察 有孔円礫
北海道の漁網の錘に、このような穴のあいた錘があったと記憶していますが!?
波の荒い北海道の海では石の両端を打ち欠いた程度の石錘では外れて網が流されるので
このような錘が使われるのだろうと推測したはず。
長崎にあったとは。長崎が先か、北海道から持ち帰った技術か。
もし北海道の技術を習ったものなら、貝輪の交易者は北海道から生還したことになる。 |
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| 5150 |
5151
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下本山町
四反田遺跡
~活発な海外との交流の地~
米作りがはじまる弥生時代前期 (約 2,300年前) に、 相浦川(あいのうらがわ)の辺りに大きな集落が現れました。
東西 80m、南北50mの楕円形に並んだ竪穴住居群の中には、朝鮮半島で造られていた形の竪穴住居が発見され、
それとともに土器 (朝鮮半島産無文土器) が出土しました。 ほかにも、 倉庫群や炉跡があり、集落を取り囲むように墓地がありました。
墓地は地面に穴を掘って土壙墓、 大切に石で囲った石棺墓に分かれており、 身分の違いを表していると考えられています。 |
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佐世保市四反田遺跡とは
AI による概要
佐世保市四反田遺跡は、長崎県佐世保市下本山町にある縄文時代から弥生時代にかけての集落・墓地遺跡です。
1990年代の調査で、当時の住居跡や墓地が発見されており、北松浦半島周辺の古代の生活環境や文化を知る上で重要な学術資料となっています。
所在地: 長崎県佐世保市下本山町。
遺跡の種別: 集落(住居跡)および墓地。
時代: 縄文時代~弥生時代。
主な特徴
長期にわたる利用: 縄文時代の生活痕に加え、弥生時代の墓地や建物跡が確認されており、長期間にわたり人々が居住・活動していた場所である。
立地: 佐世保市北部の山間・谷間に位置し、周辺の遺跡群とともに古代の地域社会を形成していた。
※長期にわたる利用:確かに、佐世保市の遺跡は大変長期にわたって利用されている。他の地域とは比べ物にならない。
これは、気候や自然災害、食糧獲得が、非常に安定していて、しかも外敵も少なく、安定して暮らしていられたからだろう。
これまでのところ、洞窟が沢山あった以外の安定要素は展示されていないが、居住場所の安定=洞窟、だけがこれほどの効果をもたらすのか。 |
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四反田遺跡 |
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遺跡位置 |
竪穴住居

ワシは長い旅を
して、ココへた
どりついたのじゃ! |
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5152暮らしの道具 四反田遺跡
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石錐
孔をあける道具
~作る道具~ |
蛤刃石斧
木を倒す道具
~働く石器~ |
石包丁
穂を収穫する道具
紡錘車(糸を紡ぐ道具)
~作る石器~ |
扁平片刃石斧

木を加工する道具
~働く石器~ |
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磨製石槍(せきそう)
祀りで使用する道具
~祀る道具~ |
石鏃
伝統的な狩猟具
~狩る道具~
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石鏃

対人用と考えられる大型石鏃
~戦う石器~ |
石鏃 対人用と考えられる大型石鏃
~戦う石器~ |
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5155土器 四反田遺跡
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壺
弥生前期
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甕
弥生前期 |
右:甕
弥生前期 |
左:甕(弥生後期)
右:複合口縁壺(後期)
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中:壺(弥生後期) |
右:高坏 |
祀りで使用される土器
弥生後期~古墳初頭 |
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5061
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中里町・愛宕町
門前遺跡
~お墓に込められた人々の思い~
門前遺跡は、 縄文時代前期 (約 6,000年前)~平安時代のおわり頃(約800年前) の遺跡で、
特に弥生時代のおわり~古墳時代のはじめ頃 (約1,800年前)の墓地が発見されました。
墓地は近くにある四反田遺跡と同様に土壙墓や石棺墓などがあり、全部で17基ものお墓が見つかっています。
石棺の中には骨は残っていませんでしたが、 鉄剣や刀子 ガラス玉などの副葬品があり、 この周辺を治めていた身分の高い人の墓域と考えられています |
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 ワシの若い頃とは、
ガラッと変わって
しまったのぉ~! |
遺跡位置
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現在の門前遺跡
(相浦中里IC)
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| 6162
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5170 7.地方豪族の出現
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5171
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古墳時代
約1,600~1,300年前
各地に古墳が造られた時代を古墳時代といいます。
古墳は、九州地方から東北地方まで全国で造られ、 前方後円墳や円墳、方墳など様々な形のものがあります。
なかでも大阪府にある大仙(仁徳陵)古墳は全長486mもある日本最大級の古墳です。
古墳の内部には石室 (遺体を葬る部屋) が造られ、副葬品が 発見されています。 古墳を築くには、優れた技術者を指図し、
多くの人々を働かせることができる大きな力 (権力)が必要であったと考えられています。
佐世保市内には鬼塚古墳(5世紀)、 テボ神古墳(7世紀)など10数基の古墳が発見されています。
しかし、古墳時代の人々の集落は、今のところよく分かってなく、謎につつまれています。 |
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5173鬼塚古墳
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佐世保市 鬼塚古墳とは
AI による概要
鬼塚古墳(佐世保市)と青銅鏡などの出土品 長崎県の文化財 ...
佐世保市宮津町にある「鬼塚(おにづか)古墳」は、5世紀中頃(約1500年前)に造られた長崎県指定史跡の円墳です。鉄製武具や青銅鏡などが豊富に副葬された横穴式石室を持っており、この地域の有力者の墓とされています。2013年の発掘調査でその価値が再確認された歴史的に貴重な場所です。
主な概要と特徴
・場所: 佐世保市宮津町(みやつちょう)の山中、ミカン畑の付近に位置します。
・規模と形状: 直径約17m〜17.5m、推定比高差約3mの円墳(南北に長い形状)です。
・年代: 5世紀第2四半世紀(西暦425年〜450年頃)に築造されたと推定されています。
・特徴: 横穴式石室が中心にあり、5世紀代としては珍しく鉄製品が多数出土しており、この点からも重要な遺構とされています。
・出土品: 青銅鏡、鉄製甲冑、鉄剣、鉄刀、鉄鏃、鉄鎌など。これらは「鬼塚古墳出土遺物一括」として長崎県有形文化財に指定されています。
・保存と管理: 経年による墳丘流失を防ぐため、2013年に発掘調査と整備が行われました。現在は周囲に柵が設けられており、頂上には祠(ほこら)が祀られています。
地元の伝承では、この地を治めていた「速来津姫(はやくつひめ)」の墓ではないかとも言われています |
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青銅鏡
変形四獣鏡
鬼塚古墳
5世紀前半
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銅剣 鬼塚古墳
5世紀前半
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曲刃鎌 鬼塚古墳
5世紀前半
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鉄鏃
短頸鏃 鬼塚古墳
5世紀前半
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短甲 鬼塚古墳
5世紀前半
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曲がっている鉄板は
衝角付冑
の一部かな。 |
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佐世保市 テボ神古墳とは
AI による概要
佐世保市のテボ神古墳(てぼがみこふん)は、同市城間町(宮地区)にある7世紀頃の古墳時代後期に造られた豪族の家族墓(横穴式石室)です。現在は盛土が失われ、石室の石と敷石が残るのみですが、かつて勾玉や耳飾りが出土した地元の貴重な歴史的遺産です。
詳細な特徴は以下の通りです。
・場所: 佐世保市宮小学校の近く、水田の一角に位置しています。
・構造: 7世紀頃の横穴式石室で、奥壁までの長さが
、左右幅が1.7m
、入口が
のほぼ正方形の小規模な石室です。
出土品: 勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、耳飾りなどの装身具が出土しており、これらの遺物は島瀬美術センターなどに展示されています。
由来: 宇都宮通景が父通綱を「宇都宮大明神」として祭祀した際に、その遺骨を納めた場所であるという伝承が残っています。
なお、この周辺の宮地区は「歴史の宝庫」とも呼ばれ、古墳や中世の城館跡(蓮輪館)が点在しています。
テボ神古墳は、長崎県佐世保市城間町にある7世紀ごろ(古墳時代後期〜終末期)の古墳です。
地元では「テボ(竹製の籠)」に似た形状の神様を祀っていたという伝承や、石室の形状に由来する名称とされています。
主な特徴
・墳形: 周溝をもつ円墳ですが、現在は盛土が失われており、横穴式石室の石材が露出した状態になっています。
・被葬者: 当時の地域を治めていた豪族の家族墓と考えられています。
・出土品: 勾玉、管玉、耳飾りなどの装身具のほか、須恵器(当時の土器)などが出土しています。
・立地: 佐世保市立宮小学校の近くに位置しており、地域の歴史を伝える貴重な文化財として親しまれています。 |
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5175
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江上町
松ヶ崎古墳
~岬の先端の長~
大村湾が深く入り込む江上浦に突き出した岬の先端にあり 砂岩の板石を組んだ大型の石棺が見つかりました。
この石棺は、幅約110cm 長さ約180cmの大きさがあり、当時の石棺としては大きいことから、有力者のお墓であったと考えられています。
石棺の中に人骨は残っていませんでしたが、鉄製の直刀が出土しました。
この古墳は、入り江に面した岬の先端に築かれており、このような古墳は対馬の浅茅湾にもみられます。
もしかすると、古墳時代の針尾と対馬には、つながりがあったのかもしれません。
※港を支配する権力者だったのかもしれませんね。
松ヶ崎古墳とは
AI による概要
松ヶ崎古墳は、神奈川県横浜市港南区(港南台9丁目周辺)の丘陵端部に分布する古墳時代の遺跡群です。主に円墳や横穴式石室が確認されており、地元の歴史研究により、その存在が知られている貴重な地域遺構です。
主な特徴と詳細
・立地: 西に延びる丘陵の端部に位置する。
・構造: 主に円墳(群集墳)で構成され、内部施設として横穴式石室が確認されている。
・調査状況: 過去に港南歴史協議会などにより調査が行われ、『港南の歴史』などにおいて「松ヶ崎古墳」や「松ヶ崎古墳5穴」として記録されている。
・現状: 一部は調査されているが、周辺には宅地化や他の開発が進んでいる場所もある。
※注:上記は横浜市の松ヶ崎古墳に関する情報です。他の地域(例:京都)にある同名の地名や遺跡と混同しないよう注意が必要です。 |
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松ヶ崎古墳
~岬の先端の長~
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石棺推定復元図 |
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鉄刀
松ヶ崎古墳
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土師器
副葬品
6世紀後半~7世紀前半
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5180 8.中央文化の波及
古代 |
5181
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奈良~平安時代
約1,300~800年前
大化の改新によって、天皇を中心とした国づくりが始められ、有力な豪族が貴族(位の高い役人)として政治に参加する仕組みや本格的な都 (京) がつくられました。
また、中国や朝鮮から日本に仏教が伝えられ、 東大寺や法隆寺などの大きな寺院が建てられました。
平安時代は平安京を中心に、 最初は貴族が政治を行う時代でしたが、地方では武士が力を付けていき、次第に武士の政治へと移り変わっていきました。
佐世保市内では、この時代の遺跡として三島山経塚 (広田町) 明星ヶ鼻経塚 (針尾東町) 飯盛山経塚 (木宮町) などの仏教に関連する遺跡が見つかっています。
相浦川流域や早岐・広田地域では、 国内 (京都府・山口県・熊本県など)や海外(中国・朝鮮半島)との交流があったことを示す土器が大量に発見されており、海や川を利用して貿易していたと考えられています。 |
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5182
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広田町
三島山経塚
~後世へのタイムカプセル~
早岐瀬戸に面して三島という小高い丘があります。 ここは、 今から約900年前の平安時代の遺跡でもあります。
丘の頂上に穴を掘り、 お経と銅鏡を入れた滑石製の経筒と陶磁器を納めた 「経塚」 と呼ばれるものがあり、 納められた銅鏡や陶磁器は中国からの輸入品で、当時としては大変貴重なものでした。
平安時代の終わりころになると、各地で戦争や飢饉がおこり、仏教が滅びる 「末法」の時期と考えた僧侶達は、将来仏教が復活するときのことを考えて、お経を地下へ保存しました。
まさに古代のタイムカプセルなのです。
三島山経塚
AI による概要
三島山経塚(長崎県佐世保市広田町)は、三島山の北側崖で発見された、滑石製の経筒や胡州鏡、景徳鎮産の青白磁などが出土した経塚です 佐世保市博物館島瀬博物館センター、広田地区自治協議会。これらの遺物は、この地が古代から信仰の対象(聖地)であったことを示しており、現在は明治26年に建立された三島神社の祠の後に祀られています 佐世保市博物館島瀬博物館センター。
・主な特徴・発見の経緯
・場所: 長崎県佐世保市広田町の三島山。
・発見: 昭和36年(1961年)11月、中学生が北側土取場跡から滑石製経筒と鏡(胡州鏡)を発見した。
・出土品: 経筒、胡州鏡(宋時代の銅鏡)、景徳鎮産の青白磁合子、小壺など 佐世保市博物館島瀬博物館センター、。
・関連施設: 三島山には箱式石棺(古墳)も10基以上確認されている 佐世保市博物館島瀬博物館センター。
三島山は古くからの聖地とされ、この経塚は当時の信仰や文化交流を知る上で重要な遺跡です。現在は三島神社の管理下にあります。 |
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三島山経塚 |
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湖州鏡
中国の南部で作られた鏡
12世紀
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青白磁合子
景德鎮(中国) 12世紀 |
滑石製経筒
西彼杵半島産の石 12世紀 |
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湖州鏡
AI による概要
湖州鏡(こしゅうきょう)は、中国の宋代(10-13世紀頃)に浙江省湖州で制作された青銅鏡です。薄手で裏面に「湖州真石家」などの銘(製造元)があるのが特徴で、平安・鎌倉時代に日本へ多く輸入されました。鏡の裏面には、縁起の良いモチーフや花鳥文が描かれることが多く、当時の日本の貴族や僧侶に愛用されました。
・特徴: 湖州の真石家、念二叔など、工房の銘が鋳出されていることが多い。
・形状: 円形が一般的だが、四角形の「湖州方鏡」も存在する。
・日本での流通: 平安時代後期から鎌倉時代に多量にもたらされ、経筒の蓋(経筒蓋)や、鏡の裏に絵が彫られた(毛彫)ものなどが見つかっている。
・出土地: 日本全国の遺跡から出土しており、鎌倉時代の貴族の日常生活や宗教行事(経塚)に用いられた。
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| 5185陶片
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| 5187
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5190 9.武士集団の出現
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5191
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鎌倉~戦国時代
約800~400年前
鎌倉時代は平氏との戦い (源平の合戦) で勝利した源頼朝が鎌倉幕府を開き、 戦いがやむことがない時代でした。
その後、鎌倉幕府が倒れると、 足利氏が室町幕府を開きました。
室町時代は金閣寺や銀閣寺、 すみ絵、 能・狂言など、 現在も多くの人々に親しまれている文化 芸能が生まれました。
室町幕府がおとろえると、 戦国大名と呼ばれる各地の武将が自分の支配する土地に戦いに備えた城をつくりました。
佐世保市内には、これまで約50カ所もの城跡や館跡が見つかっています。
当時、 宗家松浦氏、 平戸松浦氏、 大村氏などの領地の境にあり、その領土境を守るための城を構える必要がありました。
直谷城 (吉井町)、武辺城 (竹辺町)、 針尾城(針尾町)などでは、 海外との貿易品とともに戦いに関連する多くの武器が見つかっています。
佐世保に群雄割拠の 戦国時代が 到来じゃ!
※今から考えると、室町時代は決して穏やかで安定した時代ではなかったのに、まるで、平安時代の国風文化の発生時期のように、
現代にまで影響する、様々な日本固有の文化が生まれたのはなぜだろう。 |
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5193
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針尾中町
針尾城跡
~ルイス・フロイスが記した城~
針尾瀬戸を見下ろす標高25mの丘にある城跡で、 平成16年の発掘調査では、 二重の土塁と空堀で囲まれた円形の平場に建物跡が見つかりました。
出土した遺物は国内産の土器、 海外との貿易で輸入された陶磁器、 金属器など約 4,000 点にも及んでいます。これらの遺物から、13~16世紀後半までの城であることが分かりました。
この城については、キリスト教宣教師のルイス・フロイスがヨーロッパで出版した「日本史」の中で、城主である針尾伊賀守のことを「ハリボウ」 と紹介し、「大村の海が極めて潮の流れ激しく狂奔する海峡のそばに城を構えていた」と記されています。
城跡の針尾瀬戸側には切り立った崖の他に防御施設はなく、
瀬戸を天然の堀とするとともに、通過する船ににらみをきかせていたと考えられます。
※通行料を盗って、海賊上がりの城主だったのだろうか。 |
針尾城跡
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そう簡単には攻められぬ! |
遺跡位置 |
障子堀跡 |
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5194
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チェックポイント!
城(針尾城)の平場の北東隅には、 平場を造成した後に、 再び造成した区画があります。 ここは、建物を建てる際に造成した場所で、 柱穴が見つかっています。
柱穴のすぐ上には大量の炭化米があり、 柱穴の脇からはほぼ完全な形をした朝鮮産の灰釉碗が出土しています。 つまり、建物を廃棄した後に、この場所で何らかの祭祀が行われていたようです。
この炭化米と一緒に小枝や竹、 木の実も一緒に見つかっており、 竹や雑木を焼き、 そのオキの上に米が乗せられて炭化したのではと考えられています。
炭化米の総量は 1.7kg なので、生米では4kg程度であったでしょう。
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チェックポイント
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炭化米
加持祈祷の跡のようだ |
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粗製青磁碗 福建省16c
瓦質火鉢 山口県16c
唐草文染付皿
景徳鎮(中国)
16世紀前半〜中頃 |
赤間硯
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砂岩製坩堝
青銅器の生成に使用
16世紀
炭化米
加持祈祷で使用?16c
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青磁稜花皿
龍泉窯系(中国)
15c後半~16c前半 |
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5200 10.近世手工業の発達
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5201
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江戸時代
約400~200年前
江戸時代は、1603年に徳川家康が朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸(東京都) に江戸幕府を開いたことに始まります。
幕府は、全国に一国一城令を出し、 大名が住む城以外の城は破壊を命じ、 戦いのない安定した世の中が生まれました。
江戸時代の佐世保市は平戸藩松浦家が治めており、 新田の開発や平戸往還 (道路)、 本陣や宿場町を整備し、 平戸領内の産業(三川内焼・捕鯨等)を興し、社会基盤を整え、 現在の佐世保市の基礎が形成されました。
今も佐世保市内の町名に残るっている 「大潟」 や 「新田」 は、この時代に海や干潟を陸地にし、 農作物を作っていた場所です。 また、 平戸から彼杵までの平戸往還は約60kmあり、今も江迎本陣(江迎町)や石畳(早岐2丁目)など、当時の宿場町の様子が残っています。
1867年に徳川慶喜が政権を朝廷に返し(大政奉還)、 1868年に明治維新があり、江戸を東京と改め、江戸時代は終わりを告げ、 明治時代が幕を開けるのです。
そろそろ 新しい時代の風が吹いてきたようじゃ! |
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江戸時代
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染付藻貝山水文陵花皿
ろくろ型打ち成形
17世紀後半 |
わん
染付雲龍文見込団龍崩文碗
17世紀後半
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染付団龍文皿
海外輸出用 17世紀後半 |
染付団龍文草花輪花文皿
丸まった龍の文様
17世紀後半
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染付栗文緑釉角皿
銅を材料にした釉
17世紀後半 |
染付葡萄文皿
ろくろ形でとても薄い 17世紀後準
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染付波濤扇子文鉢
波との扇の文様
18世紀
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徳川家の家紋三つ葉葵紋
色が変わっている所が
見つかった部分の文様
染付三つ葉葵文大皿
将軍家への献上品
18世紀初頭
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5202
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三川内町
三川内東窯跡
~将軍家のうつわを作った窯~
江戸時代、 三川内地区の3つの皿山 (三川内・木原・江永) に窯場がありました。 ここは約400年の間、 焼き物を作り続けており、今でも古い窯跡が残されています。
中でも、 三川内 皿山にある三川内東窯跡は、 薪を燃料とした登り窯で、 最大時で20数室の焼き物を焼く部屋が連なり、 全長約120m の規模となります。
火まわりの良い部屋の数室を将軍や平戸藩主への焼き物を作るためのみに使われました。
その後、 三川内東窯の約70m 西側に位置する三川内西窯に窯の主体を移すこととなります。
三川内東窯は同じ場所で何回も窯を作り直しており、昭和期まで焼き続けその役目を終えましたが、現在でも町の中に窯の痕跡が残されています。 |
窯道具
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ハマ
この上に器を置いて焼く
17世紀後半
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匣鉢
この中に器を入れて焼く 17世紀後半
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陶枕
この上に器を置いて焼く(窯道具)
17世紀後半 |
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5203平戸八景 ~今と昔~
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平戸領地方八竒勝とは?
平戸藩のお殿様 松浦熈が佐世保に位置する風光明媚な8か所の景観を選び、 「平戸領地方八竒勝」 と名付けました。
現代では、「平戸八景」 と呼ばれることが多く、 国名勝に 指定されています。
今でも多くの人が訪れています! 松浦熈は、江戸時代に 「佐世保の観光地」 を作ったんだ!
高巖 潛龍水 石橋 大悲觀
眼鏡石 巖屋宮 福石山 潮之目 |
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高巌 |
潜龍水
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石橋
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大悲観
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眼鏡石
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巌屋宮 |
福石山 |
潮之目
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5204
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初公開!
キリシタン大名大友宗麟の領内で作られた 「メダイ」が長崎県下で初出土
~岐川河川改修工事に伴う発掘調査の成果~
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1. 事業名 |
早岐川河川改修工事に伴う埋蔵文化財発掘調査(早岐瀬戸遺跡) |
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2. 事業主体 |
長崎県教育委員会 |
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3. 調査主体 |
長崎県埋蔵文化財センター |
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4. 調査年度 |
令和元年度~令和6年度 (継続中) |
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5. 調査内容 |
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長崎県教育委員会は、令和元年度から佐世保市の早岐川河川改修工事に伴う埋蔵文化財発掘調査として、早岐瀬戸遺跡の発掘調査を実施しています。
出土遺物の整理作業や精密分析・保存処理作業は、発掘作業の翌年度以降に順次着手しており、今回確認された青銅製品は令和2年度の発掘調査で出土しました。 |
(1) 青銅製品の説明と歴史的意義
この青銅製品は、付着していた泥をクリーニングし類例を調べたところ、 16世紀のキリシタン大名、大友宗麟の領内である豊後 (現在の大分県) で作られた
とみられるキリシタン信仰用具 「メダイ」 であることがわかりました。 豊後産のメダイが長崎県内で出土したのは初めてです。
円盤の上部にナスビのヘタのような三つの角があるのが形態的な特徴で、 高さ 24.8ミリ、 幅 17.8ミリ 厚さ 5.7ミリ、 重さ 13.4グラムで青銅製です。
聖画像などの文様はなく無文ですが、これまで豊後府内 (大分市) を中心に34例が知られており、それらの中には十字架が施されたものもあります。
キリスト教におけるメダイは、キリスト、 マリア、 聖人、 十字架などを施した 金属製の小さなプレートで、護符や信仰を表すものとして信者が携行したものです。
1549年にザビエルによってキリスト教が伝えられて以降、来日した宣教師たちはヨーロッパやアジアで作られたメダイをもたらしましたが、今回確認され |
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たメダイは、豊後において独自に作られた日本産で、豊後が島津氏によって焼き討ちされる 1586 (天正14)年まで作られていたと考えられています。
長崎県内では、1571年に町建てされキリシタンの町として栄えた長崎 (現在 の長崎市街)においては数多くのメダイが出土していますが、 豊後産のメダイは
これまで確認されていません。 今回、 早岐瀬戸遺跡から豊後産のメダイが出土したことは、長崎開港以前のキリスト教の広がりを示すものとして貴重です。
長崎以前に南蛮船が寄港していた平戸や、大村純忠が開港した横瀬浦と豊後とのつな がりの中で伝えられ、その後信者によって保持されていたと推測されます。
(2) 青銅製品の出土状況
メダイが発見されたのは、 早岐川河口の埋め立てに伴う護岸石垣の基礎石の近くです。護岸石垣は、17世紀代に埋め立て地が拡げられていく過程で、数多く築かれたことが明らかになってきています。
メダイが埋め立て以前の干潟に埋没していたものなのか、 埋め立てが始まり護岸石垣を築く際に残されたものかで時代背景は大きく変わります。 もし、埋め立て以前の干潟に埋没していたとすれば、キリシタン大名大村純忠の治世である可 能性があります。 また、埋め立ての際に埋没したとすれば、 禁教令の布告された後である可能性があります。 今後、護岸石垣を含む 遺構や周辺の出土遺物を整理していくなかで総合的に検討していきます。
(3) 今後の予定
令和元年度から始まった大規模な発掘調査では 2,800箱を超える膨大な遺物が出土しており、 現在は出土品の整理作業に着手しています。
令和 12 年度に総括報告書の刊行を予定しており、メダイにまつわる謎をはじめ、 地域の歴史を少しずつ紐解いていく予定です。 |
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大友宗麟領内で作られたキリシタンメダルが長崎県下で初出土
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メダイの出土地点 |
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5205メダイ 16世紀後半
※メダイとはメダルの意味。フランス語。キリスト教布教の神父の用語。
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5206
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早岐の暮らし
早岐瀬戸遺跡からは、江戸時代のカマドや上水施設、 建物の柱の跡などが見つかっています。
また、茶碗や皿などの焼き物の他に下駄や櫛などの木製品、銭・キセル 包丁などの金属製品のような当時の人々が使った物に加え、
鯛やスズキなどの魚骨・鹿やイノシシなどの獣骨、 アサリや牡蠣などの貝類、 スイカの仲間や桃の種子など当時の人が食べた物もたくさん見つかりました。
早岐瀬戸遺跡
AI による概要
早岐瀬戸遺跡(はいきせといせき)は、長崎県佐世保市早岐2丁目に位置する、長崎県教育委員会が発掘調査を進めている遺跡です。1653年の埋め立て以来、宿場町・港町として栄えた早岐地区にあり、大村湾と佐世保湾を結ぶ歴史的な水路「早岐瀬戸」周辺の過去の姿を知る重要な場所です。
主な特徴と情報
所在地: 長崎県佐世保市早岐2丁目。
歴史的背景: 早岐地区は奈良時代の「肥前国風土記」において、潮の流れが速い海峡「速来門(はやきもん)」と記述された場所。 |
早岐の暮らし |
早岐の暮らし |
建物の柱の跡
上水施設の跡
カマドの跡 |
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肥前産の陶磁器
17,18世紀
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水滴(18-19世紀)
将棋の駒(18-19世紀)
櫛(19-20世紀)
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5207
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早岐瀬戸遺跡とは
早岐川河口の県道より瀬戸側の一帯およそ30,000㎡が早岐瀬戸遺跡です。
ここは、平戸藩の記録によると江戸時代の初めの1653年に埋め立てにより造られた街で、宿場町や港町 として人や物が集まりとても栄えました。
建物や道路の下に人々の生活の跡が残っていることが分かったのは10年ほど前のことです。 下水道工事の際に江戸時代に作られたたくさんの焼き物が出てきました。そこで、早岐の街の下には江戸時代の遺跡が良好な状態で残っていることが予想され早岐瀬戸遺跡として周知することとなりました。
これまでに佐世保市教育委員会や長崎県教育委員 会が発掘調査を行っています。 |
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早岐瀬戸遺跡とは |
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五島灘
大村湾
早岐瀬戸遺跡 |
早岐瀬戸遺跡
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埋め立てて 造られた早岐の街
江戸時代の早岐の中心には平戸の殿様や家来が泊まる宿がありました。
町の中心には平戸と長崎街道を結ぶ平戸街道が通っていて道の両脇にはたくさんの宿 があったと思われます。
この早岐の街ですが、江戸時代の初めの1653年に埋め立てにより造られたと平戸藩の記録にあります。
そのことを裏付けるように、2020 (令和2)年の発掘調査で埋め立て護岸の石垣が15列見つかりました。
早岐の街は海へ向かって少しずつ広がっていきました。 |
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陶磁器と早岐港
陶早岐瀬戸遺跡では三川内焼 波佐見焼 有田焼など早岐周辺で焼かれた陶磁器が大量に出土しました。
県が行った調査では、6か年で陶磁器を主とした遺物がコンテナ 2,800箱以上出土しました。
また、割れたたくさんの陶磁器をまとめて捨てた場所が何か所もありました。 これらのことから、 早岐が陶磁器の積み出し港であった可能性が高まっています。 |
陶磁器と早岐港 |
出土した遺物の一部 |
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| 5208
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5210 11.佐世保市の地形と遺跡
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5211
教育長もやってみた
~土器に文様をつけた編~ |
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5212
佐世保の歴史 |
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5213旧石器・縄文時代
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旧石器時代
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板山遺跡
泉福寺洞窟 |
縄文時代 |
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泉福寺洞窟
岩下洞穴
下本山岩陰
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下本山岩陰
大門洞穴 |
天神洞穴
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5214弥生時代
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宮の本遺跡 |
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てぼ神古墳 |
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三島山経塚(遠景) |
龍神洞穴 |
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| 5215鎌倉時代
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| 5216室町・江戸時代
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5217近代
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葭の本窯跡
(2号窯の発掘) |
楠本端山旧宅 |
明治初年の佐世保村
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明治22年鎮守府開庁時の佐世保港
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終戦直後の佐世保 |
現在の佐世保市街
(平成15年)
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| 5220 12.細石器製作工程 |
| 5230 13佐世保市の歴史 |
5240 14.埋葬人骨
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見どころ
箱式石棺の中に、 大人の成人の
男女が合葬されていました。
二人の関係ははっきりとはわかりませんが、女性は30~50歳くらいで、男性は50歳を越えていたと思われます。
顔の特徴は、 北部九州で多く みられる渡来系弥生人と異なり、縄文人と似ています。
しかし縄文早期・ 前期の人々よりも、四肢の骨が際立って頑丈で、特に 上腕骨が太く発達していました。
海で舟を漕ぐなどしていたからでしょうか? 肋骨には、骨折して治癒した痕跡があります。 |
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箱式石棺に、成人男女が合葬されていました |
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箱式石棺に埋められた弥生人骨
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下本山岩陰の弥生人は
渡来系? 在来系?
弥生時代の九州には、大陸からやってきた“渡来系”集団が現れました。 彼らは福岡・佐賀平野などで水田をつくりましたが、
西北九州や南九 州には、縄文人の系譜を受継ぐ “在来系” 集団が暮らしていたようです。
顔の特徴を比べると、 下本山岩陰遺跡の弥生人は、 縄文人と似ていることがわかります。 |
下本山岩陰の弥生人は
渡来系? 在来系? |

縄文人骨
弥生人骨 |
下本山岩陰の弥生人 (2号女性)
※頭骨の形等全く違う
山の人 |
山口県土井ヶ浜遺跡の渡来系弥生人(女性) 顔が高く、歯が大きいなどの特徴がある |
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下本山岩陰 土こう墓
縄文時代前期
壮年男子 仰臥屈葬 身長推定158.39cm |
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下本山岩陰 石棺墓
弥生時代後期
熟年男子 仰臥伸展葬 身長推定160cm以上 壮年女性 仰臥伸展葬 身長推定153. 75cm |
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※下本山岩影の人骨
下本山岩陰の地層は、貝層・灰層が重なり合う、アルカリ土壌であったため、人骨が残ったようです。
最下層は縄文前期の轟A式期の屈葬人骨。
最上層には弥生時代後期の土器とともに石棺に合葬された男女の伸展葬骨が出土し、
男性が先に埋葬され、骨化する前に女性が追葬されたようです。
※轟A式期 縄文早期末葉の土器文化。
・轟A式:鬼界アカホヤ火山灰の降下直前(約7300年前)。
・轟B式:鬼界アカホヤ火山灰の降下直後(約6000年前)
九州の土器形式 |
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