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 中部地方の縄文1 03  2017.05.18-2-28飯田市美術博物館 

    飯田市美術博物館  飯田市追手町2丁目655-7  0265-22-8118     月・祝日の翌日休館
                                                  常設展は撮影可
  交通  レンタカー or 飯田駅からタクシー   飯田駅から1.4km徒歩20分

  見所  飯田盆地の形成。田切の形成についての展示。考古は少ないが十分ある。
        驚きは、僅か80万年で中央アルプスができたとい事実である。

  注意  巨大な博物館です。迷うと館外に出てしまいます。館内図を参照してご注意下さい
        尚、大変暗い展示です。

 

目次
 
01外観

10地学
 11入口展示

20伊那谷の形成
 23地質断面図
 24岩石標本

30伊那谷の形成2 
 33折れ曲がる
   赤石山脈と関東山地



40富草の海 
 41伊那谷の形成3
 45南信州の富草層群の
     位置と地層の重なり

 47地質時代
 47-01恐竜時代の伊那谷
 47-02パシフィカの分裂
 47-03陸塊の移動
 47-04アジア大陸の成長
 47-05日本列島の形成
 
50考古学

55旧石器時代
  57石子原遺跡

60縄文時代
 61石器
  67北田遺跡
 65土器



 

70弥生時代 
 71伊那谷の稲作農耕
 資料
  中島式土器文化圏
 考察
  下伊那の農耕文化

  73石器
  75弥生時代の道具 

 

80古墳時代
 81塚原二子塚古墳
考察
貧しい下伊那になぜ前方後円墳

 82短甲
考察
  中島式土器とアルタイ民族

90奈良・平安
 91律令から荘園へ

 01外観
巨大な建屋です旧飯田城の中にありますが、 城内には、市役所を始め沢山の施設があり どれほど大きな城だったかと思います。  この館はHPに予告なしで、突然、駐車場入口にA4の紙を貼って、「臨時休館」
 などと通告するので、

 遠方から訪れるときは、必ず事前に問い合わせること。

  私は、再度、別日程で訪問しました。随分無駄金でした。(泣)

  で、せっかく行ったのに、ろくな写真が撮れてない。馬鹿ですねー!






 10地学

 11入口展示
博物館と言えば恐竜。 ただの飾りなんだけど、 人寄せに、雰囲気作りに、 高額の復元模型を展示。 テチスの海岸
マングローブとスピノサウルス
 伊那市からは、
中生代白亜紀の
マングローブシダ植物
ウェイチセリアの化石発見

群馬県の山中地溝帯からスピノサウルス類の歯が見つかっています。 

 20伊那谷の形成
  22
伊那谷の形成
富草海は1700万年前
読み:とみくさかい

富草村の海の痕跡
概要地図絵地図
和合村
富草海の時代
1500万年前
列島は平坦で付近は端部だった。
赤石山脈と伊那谷の誕生 300万年前
500万年前の丹沢の衝突で圧縮が始まり赤石山脈(赤いチャートを産する山)が隆起を始め、海底から伊那谷の低地が出現
塩嶺火山から流れでた"みそべた層"の堆積 180万年前
諏訪湖西方にあった
火山の火砕流堆積物
やがて固化し、不透水層となる。
山と盆地が姿を現す
50万年前
三河高原の隆起に伴い、木曽山脈が上昇を始める。(80万年前)
木曽山脈の上昇
10万年前
三つの山脈の隆起に伴い、陥没盆地伊那谷には沢山の断層が発生し、田切地形が発達する。
断層が段丘をつくる
2万年前
断層・段丘・田切の複雑な地形が発達する。
  23地質断面図
中央アルプスと
南アルプスを横断する地質断面図
中央アルプス
・領家変成帯の
花崗岩変成岩
伊那谷
・伊那層
・段丘礫層・天竜川
領家帯の花崗岩
・変成岩・マイロナイト
伊那山地中央構造線・三波川帯
・秩父帯
南アルプス
秩父帯・赤石山脈・
四万十帯
赤石岳・大井川
  24岩石標本
中生代白亜紀
雲母片岩・伊那川花崗岩
中生代白亜紀
摺古木花崗岩・変輝緑岩
新生代第四紀・ミソベタ層
(諏訪の火山泥流)
白亜紀・天竜峡花崗岩
白亜紀・生田球状花崗岩
白亜紀・晶質石灰岩とスカルン
白亜紀・片状花崗岩質マイロナイト
古生代-中生代・蛇紋岩岩
白亜紀・赤色チャート
中生代・枕状角礫岩

 ※チャートには白い色もある。放散虫の死骸でできた岩石

 30伊那谷の形成2 .
  31伊那谷
中部地方の地質 中央構造線・フォッサマグナ・伊那盆地 中央構造線の横ずれ断層の標本 横ずれ断層面の剥ぎ取り標本
断層破砕帯
伊那谷の地質 地質断面
 
 33折れ曲がる赤石山脈と関東山地

    本州中央部では、フォッサマグナを境に、赤石山脈と関東山地が「ハの字」に曲がっています。
    日本がアジア大陸から離れて現在の位置に移動してきたとき、丹沢山地や伊豆半島が次々と衝突しました。こうして、両山脈が折れ曲がりました。

    伊豆半島の地層 (約1100万年前) から、レピドシクリナ見つかります。これの化石は南の暖かい海のものです。伊豆半島は南の海にありました。
    その後、伊豆半島は北上し、100万年前頃には本州と陸続きになりました。

折れ曲がる赤石山脈 折れ曲がる前
1500万年前
折れ曲がり始める
1200万年前(櫛形山の衝突)
〜100万年前(伊豆半島の衝突)

現在
レピドサイクリナ
 40富草の海 
  41伊那谷の形成3
  42
伊那谷の形成 大地が裂け、陥没し、湖が連なる 西方の濃飛台地から大河川が流れ込んでいた。
濃飛=美濃飛騨地域
列島が沈没し、亜熱帯の島々となる。
海には古代ザメや鯨が遊泳する
火山活動が盛んになる 大地は隆起して陸となる 今の山並が出来上がる
  43
古代ザメ(カルカロドンメガロドン)復元模型 この時代超巨大ザメがいたのは事実です。スミソニアン博物館の動画を見ました 古代ザメが泳ぐ富草の海
新生代第三紀 亜熱帯を示す植物化石 8500万年前の地層上に
1500万年前の地層が堆積しているという意味です この富草層群 (第三紀中新世1500万年前)は、中生代の地層の上に不整合で載っている。 8500万年前の地層は隆起して浸食され、

1500万年前の地層は地上に出ていて
浸食されてしまった。
てことかな?

よくわからないな
  45南信州の富草層群の位置と地層の重なり
南信州の富草層群の位置と地層の重なり瀬戸内中新統 富草層群の海の成り立ち貝化石からわかる古環境  すみません。なんのことだか、さっぱりわかりませんでした。
  
  47地質時代
  47-01恐竜時代の伊那谷
恐竜時代の伊那谷 火砕流堆積物
濃飛火山群
手取湖

列島は大陸の一部でした
列島を構成する付加体
・飛騨帯
・船津花崗岩
・飛騨外縁帯
・美濃帯
・飛騨流紋岩類
・領家花崗岩
・領家帯
・中央構造線
・三波川帯
・戸谷構造帯
・三宝山帯
・四万十帯
アンモナイト化石の出現・伊那谷の長谷村・静岡県西部水窪町からは、恐竜時代を代表する化石、アンモナイトが出土する。

・恵那山や富士見台には恐竜時代に活動した超大型火山の噴出物、濃飛流紋岩がある。

・火山岩と共に湖底堆積物の地層があり、恐竜化石が期待される。
恐竜化石と恐竜時代の地質分布
  47-02パシフィカの分裂
パシフィカの分裂
枕状溶岩は中央海嶺で     生まれたパシフィカ大陸
 三畳紀ごろ南太平洋に 存在した大陸
     Wikiパシフィカ
分裂した陸塊は、北行するプレート運動に乗って北極方向に移動する。
ゴンドワナ大陸は、
  超大陸パンゲア
  北のローラシア
  南のゴンドワナに分裂

その間の海がテチス海

大鹿村遠山郷枕状溶岩は、赤道付近で出来ました
  47-03陸塊の移動
陸塊の移動
放散虫が赤色チャートを作る大洋底に溜った放散虫の殻からチャートが生まれました。 陸地の移動分裂した陸塊がプレートの動きに乗ってアジア大陸に移動してきた。 海底でみられるマリンスノー チャートの中の放散虫
化石
  47-04アジア大陸の成長
アジア大陸の成長 チャートは遠くの海から来たアジア大陸は遠くから移動して来た陸塊が合体してできています。大洋底堆積物の赤・白チャート等も、大陸の縁に集まってきます。 シベリア・中朝・揚子・インドシナの各陸塊の
衝突合体
内帯側:大和堆・飛騨・
中国地方北部
外帯側:伊吹海山列・北上阿武隈小陸塊・黒瀬川小陸塊・津久見海山列 チャートに含まれる化石放散虫の殻とコノドント
コノドントは原始脊椎動物クリダグナサスの歯と考えられている
  47-05日本列島の形成
日本の骨組の形成 新しい地層に取り囲まれた古い石灰岩
プレート圧力によって大陸辺縁の断層が横ずれ断層を起こし、何千キロも移動して、日本列島が形成された。
中央構造線の形成
イザナギプレートの移動と外帯の移動
次々衝突する石灰岩礁
黒瀬川帯などはゴンドワナ大陸起源の地塊
津久見海山列=大分県津久見市付近の海山起源の物質を含む地層、石灰岩
伊那谷の枕状溶岩・チャート・石灰岩などは、1億年前頃、アジア大陸の付加体になりました。 石灰岩とフズリナフズリナ化石
二畳紀中期〜後期
ペルム紀(2.99億-2.51億年前)

  この展示って、なんだか途中で終わっているような、何が言いたいんだろうか。

 





 50考古学







 55旧石器時代

    伊那谷に人が住むようになったのは、大陸と陸続きだった3万年前のことでした。気温は今より7〜8℃も低く、高い山には氷河がありました。
    人々は小集団で狩猟と移動を繰り返していました。主な道具は石を割って作った石器でした。はじめ、粗末な石器は、次第に用途によって形が工夫されました。

    しかし、その歩みは遅く、文化の発達は非常に緩やかでした。厳しい寒冷に耐えながら、人々は必死に生きていました。
  57石子原遺跡 (いしこばらいせき)
   飯田市山本の小丘陵 (海抜360m) にあり、赤土 (中部ローム層) 中から、長野県下最古の前期旧石器時代終末期 (約2万8000年前) の石器群が出土した。(?)
   石器群は主としてチャート凝灰質スレート珪質シルト岩を素材とし、母岩から割り取った剥片を、更に加工して礫器握斧斜軸尖頭器などを作っています

   日本の後期旧石器時代は3.5万年前から1.6万年前とされています。

考古展示室 旧石器時代 尖頭器下伊那郡高森町
里見遺跡
旧石器時代 石子原遺跡 礫器/ピンボケ石子原遺跡








 60縄文時代

     約1万年前になると、気候は温暖になり、山野にクリやドングリが実り、動物も増えてきました。人々は食料を貯蔵し、煮炊きの土器や弓矢を発明し、
    数家族でムラを作って暮らすようになりました。

    伊那谷では、豊かな自然の恵みに支えられて縄文文化が繁栄し、特に縄文時代中期後半 (約4500年前) には伊那谷全体に大小のムラが出来ました

    しかし、その後、自然条件が悪くなると、縄文文化にかげりが見られました。自然の恵みに依存した人々の生活は、逆に自然から制約を受けていたのです。


  61石器

     縄文時代中期の石器  ―座光寺新井原遺跡出土―
       中期になると用途に応じた様々な石器が作られた。 土掘り具の打製石器、採集具として横刃型石器・大型粗製石匙、加工には石皿・磨石などがある。

山野の幸と採集
土偶
縄文時代の暮らし 縄文の道具 有舌尖頭器(石槍)
縄文草創期

打製・磨製石斧
大型粗製石器
横刃型石器
石錘

土偶 縄文中期
駄科・宮城遺跡出土
石鏃 宮城遺跡は、
駄科権現堂遺跡として
改名しています。


  67北田遺跡
     飯田市上久堅の舌状台地 (655m) にある、縄文早期から古墳時代にかけての大集落遺跡です。

     中でも、縄文中期後半のものとして竪穴式住居址50棟、太い柱を方形に建てた掘立柱建物址3棟の他、多数の土坑、貯蔵穴・墓穴が多数発見されました。
     中央広場を20軒前後の住居が取り巻いた集落が継続して営まれたと推定されます。 (環状集落)

北田遺跡 北田遺跡関連サイト
 北田遺跡は 長野県飯田市上久堅原平

 北田遺跡 〜地元の人が協力しあい遺跡を守る〜

 飯田市上久堅の『北田遺跡』って? | 南信州お散歩日和



  65土器
押型文土器/早期座光寺・石行遺跡
上久堅・北田遺跡

・装飾把手付土器/中期中葉
・台付土器/中期       
駄科権現堂遺跡 安宅 3号古墳

駄科・宮城遺跡

深鉢形土器/中期
鼎・天伯遺跡

深鉢形土器/中期

釣手土器/中期
下伊那郡鼎町天伯 A遺跡
駄科・宮城遺跡 は
駄科権現堂遺跡
安宅 3号古墳
 と

名称変更されました。







 70弥生時代 

  71伊那谷の稲作農耕
   約2300年前に大陸から九州に伝わった稲作は、約200年かかって伊那谷に入ってきました。

   農業という安定した食料獲得法を知った人々は、はじめ天竜川近くの限られた後背湿地を利用して稲作を行いました。

   しかし、次第に両岸の河岸段丘上や谷あいの湿地にも水田を広げ、
   水利の悪い段丘上では、陸稲やアワ・稗・麦など雑穀の畑作が盛んに行われました。

   こうして、伊那谷に適した農業を発達させた人々は、ここ特有の土器と石器を作り出し、弥生時代後期 (約1700年前) には、
   「中島式土器文化圏」と呼ばれる小国家的なまとまりを形成するようになりました。

弥生時代 高燥な大地と陸耕 銅鐸(浜松市都田町:
前原[遺跡出土)
伊那谷の稲作農耕 殿原遺跡85号住居址
埋甕炉
殿原遺跡85号住居址
方形住居

 資料

  中島式土器文化圏 座光寺中島遺跡

   座光寺中島遺跡 飯田市座光寺 弥生後期後半の中島式土器の標識遺跡。引用座光寺中島遺跡 参考遺跡 縄文時代からの暮らしの跡をたずねてみよう

     遺跡は高位の段丘上に立地し、後期の竪穴住居址46軒・方形周溝墓2基等を検出した。
     弥生後期後半から終末にかけての3時期にわたる集落であることが分かり、遺跡全体では当地方有数の規模を有する集落であると考えられる。

     ※伊那谷の中島式土器文化圏は、長野盆地を中心とする箱清水文化圏と、文化的・軍事的にも対立していました。


 考察
  下伊那の農耕文化
     弥生時代の経済は稲作を行い、その米交易(こめこうえき)で半島や大陸から様々な資材や財物を得て成り立っていました。
     食料穀物は、裏作としての雑穀栽培に頼っていました。

     しかし、伊那谷では畑作・雑穀生産が主作物で、交易品としての稲作が少なく、従って鉄器の導入が極端に遅く、ほぼ打製石器で農耕をしていました。
     要するに極端に貧しく、先進的な鉄製農耕具も使えなかったほどですから、いったい、どのような生活をしていたのかと思います。

     ほぼ自給自足ではなかったか。その中で、座光寺・中島土器文化圏が出来上がったということは、やはり何らかの強い力と文化を持っていたのでしょう。

       ※反論、石ころのない水田稲作では鉄製農具は使いやすかったが、石ころだらけの畑作では、鉄製農具はすぐに摩耗し、使えなかった。といわれる。


   ※天竜川沿いの伊那谷の弥生文化は東海地域からもたらされたものです。
     当時、鉄は北部九州の勢力が独占しており、近畿や、ましてや東海では大変貴重で、伊那谷に農耕具としての導入は「はるかな望み」だったようです。

     ところが、長野県北部の千曲川沿いの地域では、北部九州と関係のあった出雲。その支配下にあった北陸の領域であり、豊富な鉄器が使われていました。

    
 

  73石器

   座光寺・恒川遺跡
     鉄器と木器が大陸から伝わり使用され始めると、全国的に石器が減少した。ところが、飯田下伊那では、石器、とりわけ石製農耕具が独自の発達を見せる。
     田畑を耕す石鍬、稲や雑穀を収穫する有肩扇状形石器、各種の石包丁などである。

弥生時代の石器 石鍬 有肩扇状形石器 横刃型石包丁
抉入打製石包丁
石鏃・銅鏃 銅鏃 石鏃

  ※稲作農耕では、開墾以外は、泥が相手であるため、農耕具の消耗が激しくないが(石は底に沈む)、畑作は、常に石ころ相手であり、農具の消耗が激しい。
    そのため、粘板岩で作れる安価な石製農耕具が使われたのではないでしょうか。

  75弥生時代の道具
石斧
甕/弥生後期
注口土器/弥生中期
座光寺・恒川遺跡
注口土器
 これらの土器は、中島式土器ですね。
 書いてないけれど。









 80古墳時代


  伊那谷の古墳時代

   3世紀の終わり頃、近畿地方を中心に、高く土を盛り上げた豪族の墓、古墳が築かれるようになりました。
   伊那谷では大和王権の支配が全国に及んだ5世紀になって古墳が築かれ始め、松本平善光寺平より遅れるものでした。

   しかし、伊那谷は前方後円墳をはじめ、総数600基の古墳があり、長野県中で最も濃密に分布しています。
   当地方の古墳の特色は、横穴式石室など、施設や副葬品に中央文化とのつながりが深くみられ、中央勢力に強い関わりを持った豪族の墓と考えられます。

   これは、伊那谷が古東山道の信濃への入口にあたり、大和王権の東国支配にとって重要な土地であったことを示しています。

    ※つまり、大和政権の強い支配下、政権の親族が来て支配していたため、大和式古墳が多くつくられたという意味か。


  81塚原二子塚古墳

   伊那谷の前方後円墳

    前方後円墳とは、円形と方形を組み合わせた形です。 下伊那地方には、高岡1号墳塚原二子塚御猿堂古墳など22基があり、
    また、前方部の短い帆立貝式前方後円墳も数基有ります。 

    5世紀以後の前方後円墳がこれほど一地域に集中する現象は、大規模な横穴式石室を持つものが多いことと併せ、当地方の大きな特徴と言えます。

 考察
  貧しい下伊那になぜ前方後円墳

    ・松本盆地・長野盆地の広大な稲作農耕地域では、膨大な稲の収量があり、高い収益を上げていたはずです。
     にもかかわらず、畑作地域の伊那谷がそれ以上の富を得て、費用の掛かる古墳を多く作れたのには、畑作以外の高価値を生む産物があったのでないか。

    ・基本、道路は繁栄の都市間を結ぶもの。長野・松本の大稲作地帯を通るでしょう。なぜ、古東山道は伊那谷を通ったのか。そこに何があったのでしょうか。

中央権力の波及と
古東山道画文帯四仏四獣鏡
御猿堂古墳/飯田市開善寺
伊那谷の古墳時代 塚原二子塚古墳 伊那谷の前方後円墳 おかん塚古墳 石室
飯田市松尾
塚原二子塚古墳
副葬品
短甲鋲留めの歩兵用鎧 朝顔形埴輪
飯田市座光寺新井原
2号古墳

二神二獣鏡、四獣鏡、
内行花文鏡、破鏡

竜丘・兼清塚古墳
環頭柄頭/竜丘地区出土
大刀の柄頭。横向きの
鳳凰が表されている。
環鈴/馬具
馬鐸
竜丘・鎧塚古墳
陶馬雨乞いの馬形
竜丘・神送塚古墳
勾玉・管玉・切子玉・ガラス玉・銀製丸玉

川路・正清寺古墳




  82短甲 飯田市三穂・立石寺蔵
       立石寺裏手の円墳出土とされる鋲留式短甲。 他に1領と、別の短甲の破片がある。 
       当地方では5世紀後半の短甲が数多く出土しており、この立石の出土例もそうした特徴をよく示している。

短甲/鋲留式/5世紀後半立石寺裏手古墳 短甲
眉庇付冑
まびさしつきかぶと
松尾・妙前大塚古墳
短甲/竜丘・鎧塚古墳出土

半島南部の鋲留め式
古式土師器/古墳前期座光寺・恒川A遺跡 古式土師器/古墳前期座光寺・恒川A遺跡 これって、骨壷ですよね 把手付高坏とハソウ ←これって本当に
把手付高坏なのかなぁ。

どう見ても
注口土器の把手の取れたものに見えるがなぁ。

考察
  中島式土器とアルタイ民族
   先にもあげたように、米交易に乏しい伊那地方が、善光寺平の北信 (信州北部) 地域の、箱清水文化圏と対峙できた理由を考えてみた。

   中島式土器は、アルタイ系民族の土器によく似ているといわれ、皮袋型水筒を土器に移したものではないかと言われている。
   で、このような系統の赤塗土器が、中部高地にはたくさんあり、実際、アルタイ民族がやってきたのではないかと考えられている。

   アルタイ民族はテュルク系騎馬民族であり、畑作牧畜民でもある。
   

   本来、列島への半島人の大量侵入の原因は、気候の寒冷化に伴う畑作牧畜民の南下・範囲の拡大が原因であり、その向こうには騎馬遊牧民の南下があった。
   従って、押し出された牧畜民の一団が列島にやってきたことは、土器から容易に想像される。

   牧畜民が手ぶらで、半島の農奴のように身一つで、渡ってくるはずはない。きっと、彼らは列島で需要が高まった馬を携えてきたことだろう。
   上越から伊那谷にかけて、同様の土器形式が点在していることから、新潟県地方から上陸して、弥生後期には、牧畜と畑作を生業としたのではないだろうか。



  「古代の伊那谷の馬(抜粋) 南信州新聞社」の抜粋・要約

    伊那谷は都と東国を結ぶ古代官道東山道が通る地であった。大きな役割を果たすのは、五世紀頃に古墳から埋葬馬が出土するようになってからである。
    元々伊那谷で馬の生産があったため、大和朝廷が伊那谷を軍馬の生産地に指定したのでないか。伊那谷の段丘上は馬が逃げにくく生産に便利だった。

    このため、朝廷の許可がなければ造れない前方後円墳が下伊那で沢山作られたのでしょう。


    確かに、弥生時代には雑穀しかできない貧しい土地で一大文化圏を築き、古墳時代には官許がなければ作られない前方後円墳が並ぶのには、
    やはり、貴重な馬の生産が重要なファクターとなっていたのではないでしょうか。






 90奈良・平安

 

  91律令から荘園へ

   伊那谷の古代
     8世紀の初め頃、朝廷は中国の進んだ機構を見習って律令を制定し、中央集権の国家を作りました。

     伊那谷は、信濃国伊那郡となり、5つの郷(里) - 輔衆(ふす)・伴野(ともの)・麻績(あさみ)・福地(ふくち)・小村(おむら)がありました。
     政治と一体となって仏教文化が伝わり、いくつかの古代寺院も建立されました。

     平安時代になると、公地公民の律令制はくずれ、土地の私有化と荘園化が進みました。伊那谷にも中央貴族の持つ荘園がいくつか出来ました。
     遺跡も各地にみられ、伊那谷の開発も徐々に進んだこともわかります。

     こうした政治支配のもと、人々の生活は苦しく、貴族の華やかな生活とは大きく異なるものでした。

木造薬師如来座像
下伊那郡高森町瑠璃寺
伊那谷の古代 円面硯座光寺・恒川遺跡 富本銭/座光寺遺跡
和同開珎銀銭
/座光寺・恒川遺跡近年発見された富本銭が
伊那谷で続々出土するのは、深い関係があった

杓子・砧・人形・舟形・下駄
木器/座光寺恒川遺跡
人形・舟形・下駄 杓子・砧※
これは朝鮮式砧です。
土器 須恵器/壺・
蓋付坏・鉢

鉢・坏・盤
御殿田窯跡群の須恵器 須恵器 ※砧は、実に変わった形です。 こん棒ではないかとみてしまう。

 私の知っている砧は
こんな形です。
藁仕事の横槌はこんな形です。
砧は、
丸いや四角の木製の
台の上に
着物を畳んで置いて、
叩いて柔らかくする道具のです。
誤りの多い砧の解説
を参照してください。

私は誤っていました。
謝ります。
 2017.12.30 13:35
 
  以降 かつあいさせていただきます。