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01外観
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10地学 |
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11入口展示 |
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20伊那谷の形成 |
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22
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23地質断面図
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24岩石標本
※チャートには白い色もある。放散虫の死骸でできた岩石 |
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30伊那谷の形成2 . |
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31伊那谷 |
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33折れ曲がる赤石山脈と関東山地 本州中央部では、フォッサマグナを境に、赤石山脈と関東山地が「ハの字」に曲がっています。 日本がアジア大陸から離れて現在の位置に移動してきたとき、丹沢山地や伊豆半島が次々と衝突しました。こうして、両山脈が折れ曲がりました。 伊豆半島の地層 (約1100万年前) から、レピドシクリナが見つかります。これの化石は南の暖かい海のものです。伊豆半島は南の海にありました。 その後、伊豆半島は北上し、100万年前頃には本州と陸続きになりました。 |
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40富草の海 | ||||||||||||||||||
41伊那谷の形成3 | ||||||||||||||||||
42 |
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43 |
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45南信州の富草層群の位置と地層の重なり
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47地質時代 | ||||||||||||||||||
47-01恐竜時代の伊那谷 |
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47-02パシフィカの分裂 |
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47-03陸塊の移動 |
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47-04アジア大陸の成長 |
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47-05日本列島の形成 |
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50考古学 |
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55旧石器時代 伊那谷に人が住むようになったのは、大陸と陸続きだった3万年前のことでした。気温は今より7〜8℃も低く、高い山には氷河がありました。 人々は小集団で狩猟と移動を繰り返していました。主な道具は石を割って作った石器でした。はじめ、粗末な石器は、次第に用途によって形が工夫されました。 しかし、その歩みは遅く、文化の発達は非常に緩やかでした。厳しい寒冷に耐えながら、人々は必死に生きていました。 |
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57石子原遺跡 (いしこばらいせき) 飯田市山本の小丘陵 (海抜360m) にあり、赤土 (中部ローム層) 中から、長野県下最古の前期旧石器時代終末期 (約2万8000年前) の石器群が出土した。(?) 石器群は主としてチャート・凝灰質スレート・珪質シルト岩を素材とし、母岩から割り取った剥片を、更に加工して礫器・握斧・斜軸尖頭器などを作っています ※日本の後期旧石器時代は3.5万年前から1.6万年前とされています。 |
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60縄文時代 約1万年前になると、気候は温暖になり、山野にクリやドングリが実り、動物も増えてきました。人々は食料を貯蔵し、煮炊きの土器や弓矢を発明し、 数家族でムラを作って暮らすようになりました。 伊那谷では、豊かな自然の恵みに支えられて縄文文化が繁栄し、特に縄文時代中期後半 (約4500年前) には伊那谷全体に大小のムラが出来ました。 しかし、その後、自然条件が悪くなると、縄文文化にかげりが見られました。自然の恵みに依存した人々の生活は、逆に自然から制約を受けていたのです。 |
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61石器 縄文時代中期の石器 ―座光寺・新井原遺跡出土― 中期になると用途に応じた様々な石器が作られた。 土掘り具の打製石器、採集具として横刃型石器・大型粗製石匙、加工には石皿・磨石などがある。 |
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67北田遺跡 飯田市上久堅の舌状台地 (655m) にある、縄文早期から古墳時代にかけての大集落遺跡です。 中でも、縄文中期後半のものとして竪穴式住居址50棟、太い柱を方形に建てた掘立柱建物址3棟の他、多数の土坑、貯蔵穴・墓穴が多数発見されました。 中央広場を20軒前後の住居が取り巻いた集落が継続して営まれたと推定されます。 (環状集落)
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65土器
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70弥生時代 |
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71伊那谷の稲作農耕 約2300年前に大陸から九州に伝わった稲作は、約200年かかって伊那谷に入ってきました。 農業という安定した食料獲得法を知った人々は、はじめ天竜川近くの限られた後背湿地を利用して稲作を行いました。 しかし、次第に両岸の河岸段丘上や谷あいの湿地にも水田を広げ、 水利の悪い段丘上では、陸稲やアワ・稗・麦など雑穀の畑作が盛んに行われました。 こうして、伊那谷に適した農業を発達させた人々は、ここ特有の土器と石器を作り出し、弥生時代後期 (約1700年前) には、 「中島式土器文化圏」と呼ばれる小国家的なまとまりを形成するようになりました。 |
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資料 中島式土器文化圏 座光寺中島遺跡 座光寺中島遺跡 飯田市座光寺 弥生後期後半の中島式土器の標識遺跡。引用座光寺中島遺跡 参考遺跡 縄文時代からの暮らしの跡をたずねてみよう 遺跡は高位の段丘上に立地し、後期の竪穴住居址46軒・方形周溝墓2基等を検出した。 弥生後期後半から終末にかけての3時期にわたる集落であることが分かり、遺跡全体では当地方有数の規模を有する集落であると考えられる。 ※伊那谷の中島式土器文化圏は、長野盆地を中心とする箱清水文化圏と、文化的・軍事的にも対立していました。 考察 下伊那の農耕文化 弥生時代の経済は稲作を行い、その米交易(こめこうえき)で半島や大陸から様々な資材や財物を得て成り立っていました。 食料穀物は、裏作としての雑穀栽培に頼っていました。 しかし、伊那谷では畑作・雑穀生産が主作物で、交易品としての稲作が少なく、従って鉄器の導入が極端に遅く、ほぼ打製石器で農耕をしていました。 要するに極端に貧しく、先進的な鉄製農耕具も使えなかったほどですから、いったい、どのような生活をしていたのかと思います。 ほぼ自給自足ではなかったか。その中で、座光寺・中島土器文化圏が出来上がったということは、やはり何らかの強い力と文化を持っていたのでしょう。 ※反論、石ころのない水田稲作では鉄製農具は使いやすかったが、石ころだらけの畑作では、鉄製農具はすぐに摩耗し、使えなかった。といわれる。 ※天竜川沿いの伊那谷の弥生文化は東海地域からもたらされたものです。 当時、鉄は北部九州の勢力が独占しており、近畿や、ましてや東海では大変貴重で、伊那谷に農耕具としての導入は「はるかな望み」だったようです。 ところが、長野県北部の千曲川沿いの地域では、北部九州と関係のあった出雲。その支配下にあった北陸の領域であり、豊富な鉄器が使われていました。 |
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73石器 座光寺・恒川遺跡 鉄器と木器が大陸から伝わり使用され始めると、全国的に石器が減少した。ところが、飯田下伊那では、石器、とりわけ石製農耕具が独自の発達を見せる。 田畑を耕す石鍬、稲や雑穀を収穫する有肩扇状形石器、各種の石包丁などである。 |
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75弥生時代の道具 |
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80古墳時代 伊那谷の古墳時代 3世紀の終わり頃、近畿地方を中心に、高く土を盛り上げた豪族の墓、古墳が築かれるようになりました。 伊那谷では大和王権の支配が全国に及んだ5世紀になって古墳が築かれ始め、松本平・善光寺平より遅れるものでした。 しかし、伊那谷は前方後円墳をはじめ、総数600基の古墳があり、長野県中で最も濃密に分布しています。 当地方の古墳の特色は、横穴式石室など、施設や副葬品に中央文化とのつながりが深くみられ、中央勢力に強い関わりを持った豪族の墓と考えられます。 これは、伊那谷が古東山道の信濃への入口にあたり、大和王権の東国支配にとって重要な土地であったことを示しています。 ※つまり、大和政権の強い支配下、政権の親族が来て支配していたため、大和式古墳が多くつくられたという意味か。 |
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81塚原二子塚古墳 伊那谷の前方後円墳 前方後円墳とは、円形と方形を組み合わせた形です。 下伊那地方には、高岡1号墳・塚原二子塚・御猿堂古墳など22基があり、 また、前方部の短い帆立貝式前方後円墳も数基有ります。 5世紀以後の前方後円墳がこれほど一地域に集中する現象は、大規模な横穴式石室を持つものが多いことと併せ、当地方の大きな特徴と言えます。 考察 貧しい下伊那になぜ前方後円墳 ・松本盆地・長野盆地の広大な稲作農耕地域では、膨大な稲の収量があり、高い収益を上げていたはずです。 にもかかわらず、畑作地域の伊那谷がそれ以上の富を得て、費用の掛かる古墳を多く作れたのには、畑作以外の高価値を生む産物があったのでないか。 ・基本、道路は繁栄の都市間を結ぶもの。長野・松本の大稲作地帯を通るでしょう。なぜ、古東山道は伊那谷を通ったのか。そこに何があったのでしょうか。 |
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82短甲 飯田市三穂・立石寺蔵 立石寺裏手の円墳出土とされる鋲留式短甲。 他に1領と、別の短甲の破片がある。 当地方では5世紀後半の短甲が数多く出土しており、この立石の出土例もそうした特徴をよく示している。 |
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考察 中島式土器とアルタイ民族 先にもあげたように、米交易に乏しい伊那地方が、善光寺平の北信 (信州北部) 地域の、箱清水文化圏と対峙できた理由を考えてみた。 中島式土器は、アルタイ系民族の土器によく似ているといわれ、皮袋型水筒を土器に移したものではないかと言われている。 で、このような系統の赤塗土器が、中部高地にはたくさんあり、実際、アルタイ民族がやってきたのではないかと考えられている。 アルタイ民族はテュルク系騎馬民族であり、畑作牧畜民でもある。 本来、列島への半島人の大量侵入の原因は、気候の寒冷化に伴う畑作牧畜民の南下・範囲の拡大が原因であり、その向こうには騎馬遊牧民の南下があった。 従って、押し出された牧畜民の一団が列島にやってきたことは、土器から容易に想像される。 牧畜民が手ぶらで、半島の農奴のように身一つで、渡ってくるはずはない。きっと、彼らは列島で需要が高まった馬を携えてきたことだろう。 上越から伊那谷にかけて、同様の土器形式が点在していることから、新潟県地方から上陸して、弥生後期には、牧畜と畑作を生業としたのではないだろうか。 「古代の伊那谷の馬(抜粋) 南信州新聞社」の抜粋・要約 伊那谷は都と東国を結ぶ古代官道東山道が通る地であった。大きな役割を果たすのは、五世紀頃に古墳から埋葬馬が出土するようになってからである。 元々伊那谷で馬の生産があったため、大和朝廷が伊那谷を軍馬の生産地に指定したのでないか。伊那谷の段丘上は馬が逃げにくく生産に便利だった。 このため、朝廷の許可がなければ造れない前方後円墳が下伊那で沢山作られたのでしょう。 確かに、弥生時代には雑穀しかできない貧しい土地で一大文化圏を築き、古墳時代には官許がなければ作られない前方後円墳が並ぶのには、 やはり、貴重な馬の生産が重要なファクターとなっていたのではないでしょうか。 |
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90奈良・平安 |
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91律令から荘園へ 伊那谷の古代 8世紀の初め頃、朝廷は中国の進んだ機構を見習って律令を制定し、中央集権の国家を作りました。 伊那谷は、信濃国伊那郡となり、5つの郷(里) - 輔衆(ふす)・伴野(ともの)・麻績(あさみ)・福地(ふくち)・小村(おむら)がありました。 政治と一体となって仏教文化が伝わり、いくつかの古代寺院も建立されました。 平安時代になると、公地公民の律令制はくずれ、土地の私有化と荘園化が進みました。伊那谷にも中央貴族の持つ荘園がいくつか出来ました。 遺跡も各地にみられ、伊那谷の開発も徐々に進んだこともわかります。 こうした政治支配のもと、人々の生活は苦しく、貴族の華やかな生活とは大きく異なるものでした。
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以降 かつあいさせていただきます。 |